第22話 波乱
「な、ななな……!」
「申し訳ありませんの。少々粗相をしてしまいましたの」
「何をしてるんですかシャルロッテさんーっ!!!」
突然、バルトロメイの頬に口付けをしてきたシャルロッテに、フランソワがそう叫ぶ。
そして、当の本人であるバルトロメイはというと、そんなシャルロッテの行動が全く理解できず、ただ戸惑うのみだ。
何故、そのように突然の口付けをしてきたというのか。シャルロッテとバルトロメイの関わりなど、あの日の闘技場での戦いと、今日以外に何もないというのに。
「あら? 何かおかしなことがありましたの?」
「どうしてっ! わたしの旦那様にっ!」
「つい、やってしまいましたの。後悔はしておりませんの」
「怒りますよっ!?」
むきーっ、と怒りを露にするフランソワに対して、バルトロメイは何も言えない。
意味が全く分からない口付けに混乱してしまって、言葉を失ってしまった、という方が正しいだろうか。
そんなバルトロメイに対して、シャルロッテは妖艶に微笑む。
「では、お嫌でしたか?」
「い、嫌に決まっています! バルトロメイ様の妻はわたしです! わたし以外、バルトロメイ様には口付けをしてはいけないのです!」
「わたくしは、バルトロメイ様に聞いておりますの」
シャルロッテが、そう真摯にバルトロメイを見据える。
だが、バルトロメイの妻はフランソワだ。そして、そういった関係になる女性、というのはフランソワで最初で最後なのだ。結婚をした以上、そこに不義があってはならない、ということは分かっている。
だが。
あまりにも美しく、可憐にそう微笑むシャルロッテに。
思わず、何も言えずただ唾を飲み込むことしかできなかった。
「お、俺は……」
「わたくしのことが迷惑だと仰るならば、二度と参りませんの。わたくしを哀れに思うお気持ちがあるのでしたら、許してほしいですの」
「……」
「バルトロメイ様っ!」
不味い。
どう答えても、シャルロッテとフランソワの間には溝ができてしまう。
バルトロメイが迷惑だとそう言えば、きっとシャルロッテは二度と来ることがないだろう。そして、シャルロッテはフランソワの数少ない友人の一人なのだ。
えてして、友人関係を壊すのは恋愛事である。
そんな二人の関係が、バルトロメイのせいで壊れる、というのはどう考えても不味い。
「シャルロッテ嬢、申し訳がないが……俺の妻は、フランソワだけだ」
「バルトロメイ様!」
「いいですの。わたくしが、勝手にしたかっただけですの。フランも随分怒っておりますし」
うふふ、と微笑むシャルロッテに、無理をしている様子はない。
だが、現状で既にシャルロッテとフランソワの間には、溝ができている気がする。
ここは、どうにかして二人の友人関係を修復させなければなるまい。
「フラン、大丈夫ですの。わたくしが、一方的に想っているだけですの」
「ううっ……! ば、バルトロメイ様だけは、渡せませんっ!」
「分かっておりますの。わたくしも、まさかフランと恋敵になるだなんて思いませんでしたの」
「わたしもですよ!」
当然である。
そもそもロッテとして闘技場で会っただけならばまだしも、既にシャルロッテにはフランソワの夫だと紹介されているのだ。そして、既にそこに夫婦関係がある以上、割り込むようなことは普通やらないだろう。
だというのに、それでもシャルロッテが、強行した理由――。
「ごめんなさい、バルトロメイ様」
「すまん、俺は……」
「最初から、期待してはいませんのよ。バルトロメイ様が、フランのことをとても愛している、ということはよく分かりましたの。だから、ちょっと悔しくなっただけですの」
「……」
「そ、そんなっ!」
そう真面目な顔で言われると、恥ずかしくなってくる。
確かにフランソワのことを愛している、という自覚はあるけれど、それほど分かりやすいのだろうか。そうであるならば、もう少し表情などを考えなければならないかもしれない。
そして、シャルロッテにそう言われたフランソワはというと、頬に手を当ててきゃー、と叫んでいる。そろそろ慣れればいいのに。
「フラン、あなたが羨ましいですの」
「えっ……!」
「わたくし、闘技場で百戦以上戦ってきましたの。中には、バルトロメイ様と同じ八大将軍だ、と名乗られた方もおりましたの」
名前は忘れましたけど、と唇に手をやるシャルロッテ。
恐らく、司会の者が言っていた『碧鰐将』アルフレッド・ガンドルフのことだろう。名前すら覚えていない、という可哀想な事実は、アルフレッドには伝えないでおこう、と決めておいた。
そして、シャルロッテは小さく肩をすくめる。
「わたくしに勝つことができれば、仮面を外して素顔を晒してもいい、とそう宣言していましたの。ですけど、わたくしに勝てる殿方は、誰もいませんでしたの。副官だ、と名乗られた方も倒しましたの」
「そう、だな」
「い、意味が分からないのですけど!」
シャルロッテの独白に、フランソワが顔中に疑問を浮かべている。
何故分からないのだろうか。少なくとも後宮で一緒にいたはずのフランソワならば、シャルロッテの戦い方についても分かっているだろうに。
「あら……分かりませんの?」
「わ、分かりませんっ!」
「では、こうすれば分かりますの?」
うふふ、と微笑みながら、シャルロッテがどこからか蝶を模した仮面を取り出す。
それを顔につけて。
その瞬間に、フランソワが驚きの表情を浮かべた。
「そ、そんなっ……!」
「わたくし、闘技場の拳闘士ロッテですの」
「百戦以上やって無敗の拳闘士のロッテさん!」
「ええ」
「握手してください!」
「ええ。いいですの」
何故かバルトロメイの目の前で握手を始める二人。どうしてこうなった。
だが、本当にフランソワはシャルロッテが拳闘士ロッテだということに気付いていなかったらしい。
そして、何故かきらきらと目を輝かせながら。
「つまり凄い拳闘士の正体はシャルロッテさんだったんですね!」
「ええ」
「凄いです! わたしも出てみたいと思います!」
「やめておけ」
フランソワがそう暴走しそうになるのを、止めておく。
シャルロッテほどの徒手格闘の腕があるならばまだしも、フランソワは弓を持たなければ一般兵にも劣るのだ。下手に闘技場になど挑戦させて、怪我でもされたら困る。
そんなバルトロメイの制止に、フランソワが僅かに唇を尖らせたが、無視しておく。
「まぁ……そんな中で、わたくしを初めて倒した殿方は、バルトロメイ様ですの」
「さすがはバルトロメイ様です!」
「ならば、恋に落ちるのも仕方ないことだと思いませんの?」
「それは当然のことですね!」
「何故だ」
フランソワが言いくるめられている。
これほど単純で騙されやすいとなると、何かの詐欺に引っかかるのではなかろうか。そもそもロッテの正体が全く分からなかった時点で、鈍感にも程があるし。
そして、そんなバルトロメイに対して、シャルロッテは薄目で微笑み。
「ただわたくしを倒しただけでは、そのように思いませんの。ですが……バルトロメイ様、あなたは、わたくしの仮面を取らなかったでしょう」
「いや、それは……」
「わたくしは、わたくしを倒す者がいれば、仮面を外してもいい、とそう言いましたの。別に、大した理由があったわけではありませんけど。ただ……わたくしの実家は、皇帝陛下に反逆を企てた家であり、わたくしの顔もそれなりに知られていました。ですから、あまり顔を出したくはなかった、というのが本音ですの」
「……」
あのときは、義侠心にかられて言ってしまった。
バルトロメイにしてみれば副官アストレイの仇討ちのような感覚であり、ロッテの素顔を見たいなどと全く思っていなかったからだ。加えて、周囲の観客がどいつもこいつも、仮面を外すことに興奮していたことに、我慢ならなかったのだ。
きっと仮面をしていることには、顔を出したくない理由があるのだろう、と思っていたし。
そして、何故かバルトロメイの隣で、うんうん、と頷いているフランソワ。
「さすがはバルトロメイ様です! そんなシャルロッテさんの気持ちを汲んで! 仮面を外さなかったのですね!」
「ええ。わたくしを倒すほどに強く、そして倒した相手を慮れるほどにお優しく、何より逞しく素晴らしいお方だと感じましたの。それは、わたくしが好きになってもおかしくないでしょう」
「ええ! おかしくありません!」
「では、わたくしにバルトロメイ様を譲ってください」
「それは絶対に駄目ですっ!」
流れで肯定しそうだったが、最後の一線はどうにか守ってフランソワは拒絶した。
これで肯定したらどうしよう、と思っていたけれど、少しだけ安心する。
逆に、シャルロッテはちっ、と目論見が外れた、とばかりに舌打ちをした。
「ああ、もう……シャルロッテ嬢、何を言おうと、俺の妻がフランソワであることには変わりない」
「あら? バルトロメイ様も、実は悪く思っていないのではありませんの? あなたを、わたくしとフランの二人が取り合っておりますのよ」
「うっ……」
いや、それは、まぁ、あれだ。
男の本能として、それが嬉しくないはずがない。
加えて、フランソワは可憐で可愛らしく、シャルロッテは息を呑むほどの美姫である。そんな二人が、二人揃って自分のことを慕ってくれている、と聞いて悪い気のする男などいるはずがないだろう。
だが、そんなシャルロッテの言葉に、フランソワが目を見開く。
「そ、そんなっ……!」
「い、いや、待て、フランソワ! 今のは……!」
「ば、ばば、ば――」
フランソワが、物凄く涙目で。
バルトロメイを、じっと見て。
そして、思い切り――叫んだ。
「バルトロメイ様の、ばかぁーっ!!!」
だっ、とそのままバルトロメイに背を向け、走り出す。
裏切られた、とばかりに涙を流しながら。
思わぬ言葉についバルトロメイも固まってしまい、すぐには動けなかった。
そんなフランソワは、勢い良く走った、その先で。
「はうっ!」
こけた。
どうして段差も何もない場所で、そのように転ぶのだろう。
「痛いです! 鼻を打ちました!」
「ああ、もう……!」
そこで、ようやく落ち着きを取り戻す。
思い切りぶつけたからか、赤くなっている鼻の頭を押さえながら、フランソワが涙目で座っているそこに、バルトロメイは近付き。
そして、ゆっくりと屈んだ。
「フランソワ」
「うっ……うぅっ……! バルトロメイ様ぁっ!」
「何度でも言う。フランソワが不安にならないよう、何度でも言ってやる」
ぐっ、と引き寄せ、抱きしめた。
背を向けて、走ってゆくフランソワを見たその瞬間に、どうしようもない不安に襲われたから。
もう、決して離すまい、と。
「俺が愛しているのは、フランソワだけだ」
「――っ!」
「俺の妻は、フランソワだけだ。俺が生涯愛する相手は、フランソワだけなのだ」
「は、はうぅぅぅぅぅ!?」
フランソワを抱きしめたままで、立ち上がる。
どうやら打ったのは鼻の頭だけらしく、膝などに傷はない。良かった、とそれだけ安堵した。
そして、そのままシャルロッテの方を見て。
「まぁ……そういうわけだ」
「残念。ふられてしまいましたの」
「そうだな……シャルロッテ嬢、お前よりも強い男を紹介してもいいぞ。少なくとも、軍には俺の知る限り二人ほどいる」
片方は先日婚約をした、という話を聞いたけれど、もう片方はまだ未婚のはずだ。
シャルロッテが望むならば、引き合わせるのも吝かではない。
「遠慮しますの」
「そうか……」
「あら? ここにいたの? フラン、ロッテ……え、これどういう状況?」
と、そこでもう一つ、割り込んできた声。
それはフランソワの友人としてやってきた、シャルロッテともう一人。
アン・マロウ商会の一人娘、マリエルである。
フランソワを抱きしめるバルトロメイ。
その近くで佇むシャルロッテ。
バルトロメイの胸でぐしぐしと泣いているフランソワ。
どう見ても、混沌の情景だろう。
「……残念ながら、横恋慕をしたらふられてしまいましたの」
「ロッテ、あなた……」
「大丈夫ですの。もう、結論ははっきりしましたの」
「ああ、なるほど」
すっきりとした顔で、そうマリエルに言うシャルロッテ。
そんなシャルロッテに、マリエルはぽん、と手を叩いて。
そして。
「バルトロメイ様を賭けて、もう決闘をしたということ?」
「――っ!」
「――っ!」
「え……?」
フランソワが、ゆっくりとバルトロメイから離れ、その背に負った弓を手に取る。
シャルロッテが、そんなフランソワを見据え、両手を上げて構える。
その発想はなかった、とばかりに――。
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