第9話 失言
「はぁっ!」
「ふんっ!」
朝。
フランソワは毎朝鍛錬を行っており、その中でも特に弓の技術を磨いている。そして、その弓の腕は歴戦の将軍であるバルトロメイから見ても、十分すぎるほどのものだ。
姿勢は美しく、動くものでさえも簡単に射抜く。少なくとも、バルトロメイはフランソワが嫁いできてから今まで、フランソワの矢が外れたところを見たことがない、というほどだ。
だからこそ、バルトロメイは早朝の訓練をフランソワと共に行うことにした。
嫁入り道具として持ってきていたのは、女性の身で扱うことなど難しいであろう、というほどの強弓。そして、鏃を外して先を丸くした矢を十本だった。そして、フランソワは弓を打っては壁などに弾き返されるそれを歩いて回収していたのである。
そこでバルトロメイは、新たに百本の矢をフランソワに贈った。プレゼントだ、と言った瞬間に泣かれたのは困ったが、喜んでくれたらしい。
もっとも――それは、バルトロメイのためでもあったのだが。
「いいぞ、フランソワ。もっと撃ってこい」
「はいっ! いきますっ!」
ひゅんひゅんっ、と放たれる連続の矢。
フランソワは腰につけた矢筒を見もせずに矢を取り出し、一瞬で弦にかけ、そして狙いを定めることもなく当てる、という神業を持っている。少なくとも十本くらいならば、連続で的の中央を射抜くことができるだろう。
そんな放たれる矢を、いかに捌くか、という訓練だ。
バルトロメイは矢に対する反射の訓練になるし、フランソワは弓術の訓練になる。
最初は嫌がられた。
バルトロメイ様に矢を放つなんてそんな畏れ多い!とやってくれなかったのだが、一生懸命説得した結果、このように早朝の訓練に付き合ってくれるようになった。
ふんっ、と放たれる矢を躱し、避け、時に叩き落として対応する。
「まだまだっ!」
「来いっ!」
ひゅんひゅんひゅんひゅん。
神速と呼んでいいほどの速度で迫り来る矢を、これほど捌けるのはバルトロメイの特筆した武があるからこそだ。恐らく、八大将軍であっても下手な者であればあっさり射抜かれるだろう。それほどまでに、フランソワの弓術は極まっている。
何故後宮でこれほどの武が身についたのか、というのは激しく疑問だが、現在の正妃を考えれば納得できるものだ。
「えいっ! やぁっ!」
「ふんぬっ!」
ひたすらに矢を叩き落とす。そのうちの一本が、ぺきりと音を立てて折れた。
やはり矢は消耗品ということもあり、バルトロメイが叩き落とす矢は時々壊れることもあるのだ。もっとも、壊れた矢の数だけ帰り道で購入しているため、問題はない。
「ぐっ!」
だが、そのように思考が逸れたためか、フランソワの放つ一本が肩へと当たる。
先を丸くしてあるため刺さることはないが、しかし相応に痛いものではあるのだ。今でこそこのようにほとんどを捌けるようになったが、最初は百本のうち十本は当たってしまった。
それだけフランソワの弓術が優れている、という証左でもあるのだが、しかしバルトロメイの体に残った痣を見てフランソワが泣き出すことだけは困ったものだった。
集中し、放たれる矢を一本一本対処してゆく。
そんな風に迫り来る矢を叩き落としているうちに、連続の射撃が終わった。
「ふひぃ……バルトロメイ様! 矢が終わりました!」
「おぉ、そうか……では回収するとしよう」
ひとまずフランソワの矢が尽きた時点で、訓練は終わりだ。
既にこのように、フランソワが矢を全て放つ、回収する、という行動を経て三度目である。熟練の戦士であっても矢を三百放つというのは体に堪えるものなのだが、フランソワは少々腕が怠い、という程度で済むらしい。
全くもって、何故伯爵令嬢であり後宮の側室であったフランソワが、これほどの武を持っているのか謎である。
フランソワと二人、矢を回収する。
今日折れたのは、合計で十五本か。帰りに買って帰らなければならないな、と小さく嘆息。
「さて……それでは仕事に行ってくるとしよう」
「あぁっ! もうそんな時間なのですか!? お弁当が!」
「今日は少し早く行かねばならんからな」
「そんな!」
「なに、一日くらいはなくてもいい」
思い切り焦るフランソワに、そうバルトロメイは笑う。
この一週間ほど、毎朝このように矢を放ってもらって、それからダンの作った食事をバスケットに盛り付ける、というのがフランソワの日課だった。
だが、今日は少し早く行かねばならない案件がある。
たまには外食するのもいいだろう、とあえてバルトロメイは言い出さなかったのだ。
「では、行ってくる」
「わ、分かりました! お気をつけて行ってらっしゃいませ!」
「ああ。夕刻には戻る」
一週間。
まだそのくらいしか経っていないというのに、バルトロメイの日常に既にフランソワは溶け込んでいた。
いることが当たり前になった、とでも言うべきか。最初はいつ逃げ出すものかと感じていたが、杞憂に過ぎなかったようだ。
もっとも、家事に関しては相変わらず、といったところだが。初日以来、ダンから調理をさせてもらえないらしい。
加えて、掃除をすれば常に何かを割るため、バルトロメイの邸宅にあった花瓶は見事に一つもなくなった。さらに洗濯をさせれば雑巾が出来上がるため、バルトロメイの軍服は既に二着が失われた。
……そう考えるといいところが何もない気がする。
まぁ、元気だけはある。元気だけは。
「おはよう」
「おはようございます」
「……おはよござます」
バルトロメイも普段より早く出仕したというのに、そんなバルトロメイよりも早く、アストレイとリヴィアは椅子に座っていた。いつもながら、真面目な部下である。
もっとも、アストレイもリヴィアも、定時になればすぐに帰るのだが。本人たち曰く、早く来るのはいくらでも早く来るが、残業は絶対にしたくないらしい。
ひとまず机の上に置いてある、今日の朝一番までに用意しなければならない書類に取り掛かる。
昨日は案件が多く、加えて部外秘の書類が多かったために、家に持ち帰ることもできなかったのだ。その代わりとして、このように普段よりも早めに出仕したのである。
「あれ、将軍?」
「む?」
「今日はお弁当じゃないんですか?」
「ん……ああ」
いつもより少ない荷物に、アストレイがそう疑問符を浮かべるのが分かった。
まぁ、確かにこのところ毎日弁当を持ってきていたため、今日に限ってないというのも不思議だろう。
「今日は外食をしようと思ってな」
「そうだったんですか。じゃあ、昼は一緒に行きましょう」
「ああ」
「でも、騎士団中で噂ですよ。将軍が結婚したんじゃないか、って」
「ぶっ!」
思わぬアストレイの言葉に、そう噴き出す。
唾が気管に入ってしまったようで、思わずげほげほっ、と噎せ込んだ。
「え……そうなんですか?」
「……結婚、したの?」
「な、何故そのような噂があるのだ!?」
「いや、だって……ねぇ? 前は一緒に食べてたのに、最近お弁当ばかりじゃないですか。結婚して、愛妻弁当作ってもらってるんじゃないか、って噂が」
「……ん」
どう考えても、その噂を流したのはアストレイとリヴィアでしかない。
思わぬ言葉に、どう言い訳をすべきか悩む。
別段、結婚したということを秘密にしなければならないわけではない。
だが、フランソワは十四歳という若さだ。そんな若い妻を迎えた、ということが騎士団に知られれば、どう考えても好奇の視線を浴びることしか予想できないのである。
せめて成人の儀である十五歳を迎えなければ。
「い、いや……それは、だな」
「僕らも心配していたんですよ。将軍ももういい年ですし、身を固めてはどうか、って」
「むぅ……」
そう心配してくれるのはありがたいが、大きなお世話である。
結局、バルトロメイにできることは誤魔化すことだけだ。
「下らんことを喋るな。仕事をしろ」
「……ごまかした?」
「おやおや……これは本当に結婚したんじゃないんですかぁ?」
「だからお前らっ!」
悪ノリが過ぎる二人に、そう声を荒げ。
そこで、唐突に扉がこんこん、と叩かれた。
にやにやと笑っていたアストレイが、表情を引き締める。さすがに、部下の前で緩んだ態度は見せられないのだ。
「入れ」
「失礼いたします、ベルガルザード将軍!」
「どうした」
「将軍閣下にお客様でございます!」
そう、騎士の一人が敬礼をしながら答える。
はて、と疑問に思う。今日は来客の予定などなかったはずなのだが。
そんな騎士の後ろから現れたのは――既に見慣れた姿。
「失礼します! バルトロメイ様っ!」
「何故来たぁーっ!?」
フランソワ、だった。
いつも通り、元気いっぱいの笑顔で両手にバスケットを持っている。
何故、こんなところにいるのか――。
「おやおや……」
「……わお」
アストレイがにやにやと。
リヴィアが無表情で。
バルトロメイを、見る。
「バルトロメイ様! 昼食をお持ちしました!」
「あ、あ、ありがとう。しかし、何故……」
「はいっ! ダンさんに一緒に来てもらいました!」
余計なことを、と心の中だけでダンを呪う。
そんなフランソワに、アストレイがにこり、と微笑みかけ。
「はじめまして。青熊騎士団の副官をしております、アストレイ・シュヴェルトと申します」
「あ、アストレイっ!」
「はじめまして! フランソワと申します!」
「フランソワさんは、将軍の奥様なのですか?」
思い切り笑顔で、大きく返事をしようとしたフランソワを遮り。
バルトロメイは、叫んだ。
「違う!」
それと共に。
フランソワから――笑顔が、消えた。
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