第8話 お風呂の一時
午後からの将軍訓練を終えて、家路を辿る。
平時はこのように、毎日家に帰れるのが救いだ。戦場に出る、となれば数ヶ月、長ければ年単位で帰れないことも多い。ダンを除く使用人には恐れられている身ではあるが、かといって戦場にいる方が心地いい、と感じられるほどの戦闘狂でもないのだ。
乗合馬車を降り、歩いて邸宅へ。
そして、扉を開く。
「ただいま」
「お帰りなさいませ! バルトロメイ様!」
まず、迎えてくれたのはフランソワだった。
夕刻には戻る、と伝えてはいたが、具体的に時間は伝えていない。だが、まるで待ってました、とばかりに玄関を入った先で待っていてくれていた。
その格好は、まるで侍女であるかのように、古いお仕着せのようなものである。
「……ええと」
「お食事になさいますか! お風呂になさいますか! それとも、わ、わた、わたた!」
「風呂?」
思わぬ言葉に、そう遮って尋ねる。
バルトロメイの邸宅には、一応広めの浴室がある。だが浴槽に水を入れ、外の竈で湯を沸かす、という重労働があるために、滅多に沸かさないのだ。貴族家でも毎日入浴できる、というのは贅沢であり、バルトロメイもここ一年ほど湯で体を拭くくらいしかしていない。
だが、そんなバルトロメイの疑問に、フランソワは嬉しそうに首を縦に振った。
「はい! 沸かしておきました!」
「いや、それは……」
「お帰りなさいませ、バルトロメイ様」
そこで、ダンが出迎えてくれる。
丁度いい、話を聞こう、とダンへ顔を向けると。
「では、お風呂ですね! フランはお湯の温度を見てまいります!」
「い、いや……」
バルトロメイの制止もきかず、そのまま浴室へ向けて走ってゆくフランソワ。
そんなバルトロメイに、ダンはふふっ、と笑って。
「バルトロメイ様のお帰りに合わせて、奥様が風呂を沸かしてくださいました」
「……何故だ」
「お仕事で疲れているバルトロメイ様に、お体を癒していただきたい、と奥様のたっての願いでして。浴槽に水を運ぶのも、薪を割るのも、湯を沸かすのも、全て奥様がされました」
「……」
つい、頬が緩んでしまうのが分かる。
そのようにバルトロメイのことを気遣ってくれる、というのは素直に嬉しいのだ。そして、バルトロメイのためだけに、そのような重労働を自ら行ってくれた、というのもありがたい。
いつ逃げ出すだろうか、と思っていたが、フランソワにその気配など欠片もないのだ――。
「ダン」
「はい」
「残り湯はもう一度沸かして、使用人にも使えるようにしておけ」
「承知いたしました」
「バルトロメイ様! お湯はちゃんと沸いておりました! 入るなら今です!」
そこで、フランソワが戻ってくる。
わざわざバルトロメイのために、沸かしたお湯の温度を見てくれていたのだ。
濡れた手も拭いていない状態で戻ってきたフランソワに、愛おしい気持ちすら沸いてくる。
「ありがとう、フランソワ」
「まぁ! バルトロメイ様のお体のためでしたら! フランは何でもいたします!」
「その気持ち、ありがたく思う。フランソワも後で入ってくれ」
「は、ははは、はいっ! 喜んでっ!」
フランソワの頭を撫でて、浴室へ行くこととする。
折角そのように沸かしてくれた風呂だ。熱いうちに入るのがいいだろう。
軍服を脱ぎ、脱衣所の籠に入れてから、浴室へ入る。
「おぉ……」
湯気で見えないほど、よく沸いていた。
試しに浴槽の湯に触れてみると、入ったらさぞ気持ちがいいだろう、と思えるほどの適温だ。桶で軽く体にかけ、その温かさが全身に染み入るようだった。
そこに置いてある、垢すり用の乾かし、半分に割った瓜を手に取る。
あまり強く擦ると痛いが、適度な力で擦ると体の汚れを落としてくれるのだ。残り湯であるとはいえ、あまり汚いものを残すわけにもいかない、と念入りに全身を擦る。
そこで。
外の扉が、閉まる音がした。
「……む?」
一瞬、気のせいかと首を傾げる。
今はバルトロメイが入っているし、他の誰かが入る、ということはなかろう。ダンあたりが何かを持ってきてくれたのだろうか、とやや扉を注視しながら見やる。
「失礼します! バルトロメイ様!」
「ぶーっ!」
そこに、一糸纏わぬ姿のフランソワがいた。
思わずそう噴き出して、それから目を逸らす。
しかし目を逸らしても、目の奥にしっかりと肌色は残っていた。
「な、ななな、何故いるっ!?」
「はいっ!? 何か変なものがおりますか!?」
「違う! 何故そこにいるのだフランソワ!」
「はいっ! お背中を流しに参りました!」
話が通じない。
背中を流してくれ、などとバルトロメイは一言も頼んでいないのだ。
「な、何故だ!?」
「えっ!? 先ほど、後で入るようにと仰られたので!」
「そういう意味ではないっ!」
あくまで、バルトロメイが入った後、自分も風呂で温まるように、という意味合いで言ったのだ。
決して、バルトロメイが先に入るからちょっと後から入ってこい、などと命令したつもりはない。
「ではっ! お背中を流させていただきますっ!」
「話を聞いてくれんか!?」
「はうっ! バルトロメイ様! 大きなお背中ですっ!」
真後ろに生まれたままの姿のフランソワがいる。その事実に、落ち着かない。
決して見てはならない、とバルトロメイは浴室の壁を凝視する。
どうして、これほど大胆な格好でバルトロメイと一緒に風呂にいるというのか。それほどまでに信頼されるような真似を、バルトロメイはしたことがない。
「ではバルトロメイ様! へちまを失礼しますっ!」
「う、うぅっ……!」
「よいしょっ! よいしょっ!」
フランソワの柔らかな指先が、背中に触れる。
それを感じて、鼓動が鳴り止まない。もしも心臓が口から出るならば、今頃そのあたりの床に転がっていることだろう。
だが、よくよく考えればフランソワは貴族令嬢である。
伯爵家という、公爵、侯爵に続く権威を持つ貴族家の出自であれば、湯浴みに侍女を連れるのは当然のことであり、一人で入浴する、という発想そのものがないのかもしれない。
だが、かといってこのように男の入浴に入ってくるというのは、些か貞操観念を疑ってしまう。
今は我慢だ。そう心を鎮め、背中を洗われるのを耐え、バルトロメイはただ前を見続ける。ともすれば振り返ってしまいそうな自分の邪心を押さえつけながら、ただひたすらに。
すると、ふと――フランソワの手が止まった。
「バルトロメイ様!」
「む、う……ど、どうしたっ!」
「本当にっ! 本当にありがとうございますっ!」
「な、何がだっ!?」
突然のそんな感謝に、そう疑問を返すことしかできない。
むしろ礼を言うべきはバルトロメイだろう。今はもう落ち着かない心をどうにかすることだけに必死だが。
「バルトロメイ様に助けていただいたこと! 今でも忘れておりませんっ!」
「な、何を言って……?」
「わたしの窮地に駆けつけくださりっ! 今までずっと感謝の想いを抱いておりましたっ!」
「え……?」
フランソワの声音に、泣き声が混じっているのが分かる。
何故それほど泣いているのか――思わず振り返ろうとして、しかし押しとどまった。
「うぅっ……! こんな日が! こんな日が来てくれるなんて! フランは嬉しくて死んでしまいそうですっ!」
「い、いや……」
「一年半前からっ! ずっとお慕いしていたバルトロメイ様に嫁ぐことができたことっ! フランは本当に嬉しいのです!」
「……一年半?」
思い出す、一年半前。
何があっただろうか。確か、前帝が亡くなってから半年ほど経たときだったはずだ。
はっ――とそこで、思い出す。
いつだったか、実家で行われた貴族家の交流パーティ。ベルガルザード子爵家の邸宅に、様々な貴族家が呼ばれた日があったはずだ。
丁度遠征から帰ってきていたバルトロメイも一応参加したが、バルトロメイのような強面がいてはパーティも盛り上がるまい、と裏庭で鍛錬をしていた。
そこに、少女を連れた男がやって来たのだ。
嫌です、嫌です、と何度も叫んでいた少女を、男は頬を殴って黙らせ、事に及ぼうとした。
そのような無体を見逃すわけにはいかぬ、と、その男を殴ったのだが――。
「まさか……」
ようやく、そこで全てが繋がる。
あの少女がフランソワだったのだ。
全く覚えていなかったが、フランソワの言によれば、あの日からずっとバルトロメイのことを慕ってくれていたという。
それを、嬉しいと言わずして何と言おう。
「ですからっ! ありがとうございますっ!」
「……そうか」
だからこそ、油断した。
フランソワの手が止まると共に。
バルトロメイは、振り返ってしまった。
「――っ!」
「はいっ!? バルトロメイ様! ど、どうされたのですかっ!? バルトロメイ様ぁーっ!」
「ぐ、ふっ……」
最後に残った記憶は、白い肌と服の上からだと意外と分からない起伏。
それと共に、バルトロメイは倒れた。
「バルトロメイ様っ! バルトロメイ様ぁーっ!」
ガングレイヴ帝国八大将軍が一人にして、大陸最強とさえ呼ばれる男、バルトロメイ・ベルガルザード。
周辺諸国は知らない。
彼に最も効果的なのは、色仕掛けなのだ、と――。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます