第27話 旅行の約束

 温泉。

 それは、火山などの地熱作用により生じた熱により地下水が熱され、人間にとって浸かるのに丁度いい適温で次から次へと湧き出すというものだ。通常の湯と色々と異なる成分があるため、健康に良い効能がある温泉もあるという。

 そして、そんな温泉に浸かって一時の癒しを得る旅行――それを、一般的に温泉旅行というのだ。


「ふむ、温泉か……」


「温泉、ですか!? わたし、行ったことがありません!」


「いや、悪くない提案だ。だが、この近くにそんな温泉などあっただろうか?」


 バルトロメイとて観光地にあまり詳しいわけではないが、さすがに帝都周辺の観光地くらいは知っている。そして、湯治場として有名なのは帝都よりも遠く離れた、エル=ギランド温泉街だ。さすがに、そこまで足を伸ばそうと思えば行くだけで数日かかるだろう。

 そして、一度は温泉に入ってみたいという想いはあるものの、長い時間をかけて癒しの湯を求めるというのも本末転倒だ。そのため、噂くらいしか聞いたことがない。

 だが、そんなバルトロメイの言葉にシャルロッテは頷く。


「ええ。テオロック山の中腹にありますの」


「ほう、テオロック山か」


 テオロック山は、帝都の近くにある有数の巨峰であり、年中登山客が絶えないと噂の山である。

 さすがに頂上まで向かうにはそれなりの準備が必要となるが、五合目くらいまでならば馬でも行けるし、良い景観が楽しめると人気の場所でもある。そんな山の中腹に温泉があるという話は聞いたことがなかったけれど、バルトロメイが知らないだけで営業しているところがあるのだろう。


「ただ、かなり辺鄙な場所にありますの。ですから、行くときには獣道を通らねばいけませんの」


「ほう……まぁ、登山は鍛錬の一つになるからな。足腰を鍛えるにはうってつけだ」


「シャルロッテさん、いいところを知っていますね!」


「ええ。わたくしにお任せですの」


 ふふん、と胸を張るシャルロッテ。

 だが、残念ながら張っているけれどフランソワと同程度にぺったんこである。


「そこは、どのように行けば向かうことができるのだ?」


「テオロック山の登山口に入って、それから道を逸れますの。そうすればしばらくは馬で進むことができますけど、行き止まりからの左手に獣道がありますの。その獣道を真っ直ぐ進めば、辺鄙な宿に出ますの」


「……それは、本当に大丈夫なのか?」


「何でも、貴族御用達の隠れ宿とか言っておりましたの。わたくしも幼い頃に一度だけしか行ったことがありませんけど」


「なるほど」


 そんな辺鄙な場所に宿を構えているとなれば怪しいものだが、それが貴族御用達となれば話は別だ。

 貴族というのは自分の知っているものを財産にしたがり、良い店などの場所を教えないことが多々あるのだ。そして、そういった隠れ宿を持っていることが自身のステータスにも繋がるのである。中には美味しい飲食店を見つけた貴族が、我が家の御用達にすると一言告げたことにより一切の宣伝を禁じた例もあるのだ。

 だが店側としても貴族御用達となれば一定の金が入り、一般客を相手にするよりも実入りが良いのである。

 そういう店なのであれば、安心だ。


「テオロック山ならば、一泊くらいで十分だろう。俺が旅行のための二日と、せめて次の日は休みたいからな……三日休みを取ればいいだけならば、問題はない」


「まぁ! では!」


「うむ……シャルロッテの勧めでもあるし、一緒に行くとしよう、フランソワ」


「はい! 喜んで!」


 わぁ、と目を輝かせているフランソワ。

 新婚旅行に温泉というのも少々渋いかもしれないが、フランソワがそのように喜んでくれるのならば、言い出した甲斐があったというものだ。

 シャルロッテが良い場所を知ってくれていたおかげである。


「では、俺は明日にでも休みを申請しておこう。シャルロッテ、そこは予約など必要だろうか?」


「多分大丈夫だと思いますの。貴族の御用達ですし、普段は閑古鳥が鳴いていますの」


「ならば、当日でも大丈夫だな。ではフランソワ、また日付が決まったら教えよう」


「はい!」


 あとはバルトロメイが休みを取っても問題ないように、軍で手回しをしておくだけだ。

 将軍の承認が必要な案件などは、ヴィクトルに回すように手続きをしておかねばならない。加えて、ヴィクトルにも事情を説明した上で協力を求めなければならないのだ。少々高い酒を贈る覚悟は決めておくべきだろう。

 もっとも、それも長期に渡るならば面倒な手続きが必要になるけれど、たかが三日程度だ。


「温泉旅行! 楽しみです!」


「そこの宿は、食事も美味しいですの。採れたての山菜や熟成した猪肉などのお鍋が美味しいですの」


「それはもっと楽しみになりました!」


 嬉しそうに、楽しそうに、純粋にバルトロメイとそのように旅行に行くことを喜んでくれるフランソワ。

 そんな姿を見られるのならば、三日程度の休暇申請は、全く惜しくない。














「……と、いう形で休暇を取りたい」


「承知いたしました。では、その間の書類は『赤虎将』に回すように手続きをしておきます」


「頼んだ。あとは向こうの事務官にも話を通しておいてくれ」


「はい」


 青熊騎士団の事務統括官に、休暇について申請を出して確認をさせる。

 さすがに一軍のトップが不在になるとなれば、事務仕事に支障が出るのが当然なのだ。そういった混乱を事前に防ぐためにも、バルトロメイ自らが足を運んで手続きをしておく必要がある。

 そして、管理事務などを統括する統括官に任せておけば、あとは問題なく書類などを回してくれるだろう。

 取った休暇の日付も、アストレイやリヴィアと話し合った結果として問題ないと判断した日取りだ。監査や訓練を見なければいけない日の間隙を縫って、三日ほど空いた場所があったのでそこに入れ込んだ。


「さて……それでは、今日の俺への言伝はアストレイに頼む」


「直帰ですか?」


「恐らく直帰になるだろうよ。あやつは話が長い」


「なるほど、ヴィクトル将軍とですか」


「そういうことだ」


 話の早い統括官にそう苦笑して、バルトロメイは青熊騎士団の駐屯所から出る。

 そのまま向かう先は、隣にある赤虎騎士団の駐屯所だ。帝都の南にあるこの二騎士団は、反目することも多いが最も連携を訓練する騎士団でもある。

 それゆえにバルトロメイとヴィクトルも、将軍という立場を越えて友人として接しているのだ。


 そんな赤虎騎士団の駐屯所――受付へと向かう。


「これは……バルトロメイ・ベルガルザード将軍!」


「うむ。突然すまぬな」


「ヴィクトル将軍に御用でしょうか?」


「ああ。忙しいようならば日を改めるが、どうだろうか?」


「少々お待ちください。確認をしてまいります」


 そして友人という立場でもあるために、このように唐突な訪問をすることも忌避されないのだ。

 同じようにヴィクトルも、特に用もないのにバルトロメイを訪ねてくることがあるのだし。しかも、大抵その用件は「飲みに行こうぜ!」なのだからどうしようもない。

 程なくして、受付の女性が戻ってきて。


「将軍がお会いになられるそうです。ご案内は必要でしょうか?」


「いや、問題ない」


「では、ごゆっくりどうぞ」


 何度となく訪ねているヴィクトルの執務室など、当然ながら頭に入っている。だが、そのように一応の伺いを立てるのも受付の仕事なのだ。

 いつもながら面倒なことだと思うけれど、それも軍の規範ということで仕方がない。

 階段を上り、訓練や騎士同士の談笑の声を聞きながら、赤虎騎士団の将軍執務室へ。


 こんこん、とその扉を叩く。


「おう」


 扉の向こうから、そう短く応対する声が聞こえる。

 それと共に扉を開き、いつもながらだらしないヴィクトルの姿に、バルトロメイは眉を寄せた。


「俺だ」


「ああ、受付から聞いてるわ。んで、一体どうした?」


「……お前は、少しは片付けようと思わんのか」


「あー……まぁ、そのうちな」


 ぽりぽり、と無精髭の生えた頬を掻きながら、ヴィクトルが苦笑いを浮かべる。

 整理整頓のきっちり行われている青熊騎士団の将軍執務室と異なり、ここはいつ来ても乱雑に物が散らかっている。それも仕方のないことなのかもしれないが、赤虎騎士団における書類などの執務は、そのほとんどがヴィクトル一人の手で行われているのだ。

 勿論事務官はいるし事務統括官もいるが、その最終判断を行うのは全てヴィクトルなのだ。そのあたりの仕事を、副官であるアストレイに補佐官であるリヴィアに分担しているバルトロメイの、軽く三倍の量である。

 それを基本的には家に持ち帰ることなくこなしているのは、素直に凄いと思うが。


「仕事を副官に回してはどうだ?」


赤虎騎士団うちの副官は永久欠番だよ。補佐官しかいねぇ」


「……そろそろ受け入れるべきだと思うがな」


「うるせぇ。それでうちは回ってんだよ」


「そうか。ならば多くは言わんよ」


 それは恐らく、これまでずっとヴィクトルがそうしてきたからなのだろう。

 元、赤虎騎士団副官ヘレナ・レイルノート――現皇后ヘレナ・アントン=レイラ・ガングレイヴ。

 彼女は長くヴィクトルの副官をしており、ヴィクトルが書類仕事を、ヘレナが現場の調練や治安維持の巡回など現場仕事を行う形で、ずっと仕事をしてきた名残なのだ。

 それも全て、ヘレナが書類仕事に向かない残念な頭をしていたからなのだが、それを口に出しては皇族に対する不敬となってしまう。どうしてこうなったのだろう。


「んで。何か用か? お前から訪ねて来るとか珍しいじゃねぇか」


「ああ……少しばかり、面倒なことを頼みたくてな」


「そいつは素敵だ。美味い酒が飲める」


 にやっ、と笑うヴィクトルは、話が早い。

 バルトロメイが少々面倒なことを頼むと、その対価として酒を要求してくるのである。バルトロメイにしても分かりやすくて良いし、何の対価もなく頼むというのも気が引けるのだから渡りに船だ。

 ふぅ、とバルトロメイは溜息を吐いて、その手荷物から酒瓶を取り出す。


「ロマネ・ガルランド。十五年ものだ」


「ちと安いな。ってこたぁ、そのくらいの案件ってことか」


「ああ。三日ほど休暇を取りたい。その間、俺に回ってくる書類を任せる」


「へぇ。お前さんが休暇とは珍しいじゃねぇか。分かった。んじゃ、その間は書類任せとけ」


「助かる」


 バルトロメイから酒瓶を受け取り、嬉しそうに撫でながらそう言ってくる。

 ちなみに十分に高い酒なのだが、もっと熟成の年数が長ければより味わいの深みが増すのだ。バルトロメイには想像もつかないが、百年ものなど平民の生涯年収でも届かないほどの値段がつくものにすらなるらしい。


「どっか行くのか?」


「ああ……少しな、妻と旅行に行くことになった」


「妻っつーと、あのちっこい娘さんか。まぁ今更だが、お前さんの嫁とは思えないよな」


「それは俺が重々感じておるよ」


 ヴィクトルの言葉に、バルトロメイも自嘲を込めて笑う。

 確かにフランソワのような娘が、バルトロメイの妻であるというのは奇妙な事実だろう。青熊騎士団では表立って言う者こそいないが、このように胸襟を開いて話ができるヴィクトルの言葉には、僅かにも遠慮がない。

 しかし、そんなヴィクトルは、にやっ、と大きく笑みを浮かべて。


「ってこたぁ、あれか。やんのか。いいなー」


「は?」


「あれだろ? 旅行先だと大胆になるからちょっと子作へぶぅっ!」


 ヴィクトルのそんなバルトロメイをからかう言葉は。

 その丸太のような腕の一振りに、舌を噛んで中断させられた。

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