龍呼ぶ妃 落ちぶれズボラ姫のいとも華麗なる適性

鷲生智美

清涼殿焼亡

第1話 清涼殿焼亡

 初秋の夜。左近衛大将の佳卓かたくは内裏の清涼殿の東庭に立ち、内部に炎が広がっていく様を見つめていた。


 清涼殿は帝が日常をお過ごしになる住まいだが、即位なされたばかりの帝は、今宵、東宮時代を過ごしていた梨壺を懐かしんでそちらでお休みになっている。佳卓は夜が更けて辺りに誰もいなくなった隙を見て、この清涼殿に忍び込んで自ら火をつけた。


 南の几帳にはあらかじめ油を含ませていたから、佳卓が手燭の灯火を近づけただけで、その薄く柔らかい布は瞬く間に明るく燃え上がった。


 次に彼は近くの御簾を手に取り、その炎に近づける。炎は御簾を舐めるように這い上がり、さらに軒を横に伝い始め、佳卓が庭に下りて殿舎を振り返ったときには、檜皮葺の屋根がプスプスと不穏な音を立て、黒煙が星の広がる夜空を汚すようになっていた。


 ──ボッ。清涼殿の屋根から紅い火焔が吹き上がる。生き物が目覚めたかのように、火の手はここで一気に勢いづく。


 「火事だ!」と遠くで叫ぶ声がした。月華門の護衛の近衛舎人が火災に気づいたのだろう。しばらくすれば内裏中の人々が集まってくるはずだ。


 焔は燃えるものを全て飲み込んではますます大きくなり、その中で、清涼殿が黒い骨組みだけになろうとしている。木の燃える臭いが立ち込める中、熱気に頬を焼かれながら佳卓はそれでも動かず紅蓮の炎の先端を睨む。


 ──まだだ。もっと燃えてもらわねば……。


 炎が夜空の底を赤く照らす。その光の届かぬ天上にまで舞い上がった火の粉が星々に混じるように宙を漂い、清涼殿の東隣の紫宸殿に降りかかる。


 清涼殿よりも大きな紫宸殿の檜皮の屋根に紅い点がポツリポツリと現れ、そのいくつかは消えないばかりか少しずつ大きくなっていく。


 パチパチパチ……。


 紫宸殿からも火が爆ぜる音が聞こえてきた。


 ──よし、紫宸殿もこれで焼ける。


 清涼殿と紫宸殿が欠ければ帝も内裏から離れざるを得なくなる。それが佳卓の目的だった。だから、これ以上の被害を望んでいるわけではない。後は速やかに消火しなければ。


 近衛舎人たちが手に手に縄や桶を持ってなだれ込んできた。佳卓はすぐに指示を飛ばす。


「清涼殿はもう焼け落ちる。紫宸殿も時間の問題だ。延焼を食い止めるため外の建物を引き倒せ! ここは池の水で消火する!」


 舎人たちの半数が駆けていき、残った者たちが庭の池に群がる。古来、清涼殿の庭に池などなかったが、二カ月前までお住まいだった先帝が蒲柳の質で夏の暑さに苦しんでおられたため、佳卓の兄の左大臣の発案で造ることにしたものだ。先帝崩御後、再び水を抜いて埋め戻す予定だったのを、今夜のこの火事のために残しておいた。


「佳卓」と呼ばれて振り返ると兄の左大臣がいた。佳卓が声を潜めて「兄上、ここまでは計画通りです」と囁く。


「新しい帝の即位を喜ばぬ声はずっとありました。ですから、この火災も、反新帝派が起こしたものだと世間は思いこむでしょう」


 先帝には皇子が無かった。お持ちになろうとされなかった。なぜなら、先帝の父帝は兄帝の皇子から東宮位を奪って自分が帝になった経緯があり、父帝の蛮行を恥じた先帝は、ご自身は子を儲けずに帝位の継承を嫡流に戻そうとなされたからだ。


 簒奪がなければ順当に帝になれていたはずの元東宮は西国に流され、そこで病没していた。その御子を京に呼び寄せて新たに東宮となさったのも先帝だ。


 ただ、このとき東宮として京に呼び戻された方は女君であられた。過去に例がないわけではないとはいえ、この国では三百年近く女君が帝の位についたことがない。ゆえに、女東宮を廃しようとする動きは何度かあった。


 女東宮の即位早々内裏が焼ければ、真っ先に彼らが疑われるだろう。まさか女東宮と親しく、新帝即位後も側近である近衛大将佳卓の仕業だなどと思う者などいるはずはない。


 左大臣が紫宸殿の方を見やる。


「清涼殿と紫宸殿を密かに焼くお前の計画は、四代の帝をお護りし、民の暮らしを安寧たらしめるためだ。だからこそ主上もご承知なされた。しかし、一方で火災が必要最小限で食い止められるのかどうかは案じておられた」


「ええ……」


 四代の帝、すなわち先帝から今上帝、次の帝とその御子への帝位継承をつつがなく行うのは、世を乱さず、民の平和な暮らしを守るため。そのために佳卓は内裏に火をつけた。


 しかし、この火災の被害が大きくなりすぎれば再建するのに民の負担が重くなる。それも避けなければならない。

 必要なものさえ燃えればすぐに鎮火できるように清涼殿の池を残し、それとなく警備の近衛の数も増やし、できるだけの備えはしておいた。今も集まってきた者たちが懸命の消火活動をしてくれている。


 しかしながら、目の前の焔は己の吐き出した煙を抱き込んで渦を巻き、全く鎮まる気配がない。


 ──まずい。


 類焼を防ぐために他の殿舎を引き倒す大きな音と振動が伝わってくる。だが、火元の勢いが衰えない限り、残しておきたい殿舎にも火の粉が降りかかってしまう。佳卓は拳を眉間に押し当て強く念じた。


 ──頼む、どうかここでもう消えてくれ……


 佳卓は若い頃から智謀の将として有能無比を讃えられ何事も全て自分の手で解決してきた。しかし、壮年の今、生まれて初めて心の底から天に祈る。己の立場はどうなってもいい。けれど、四代の帝だけはつつがなく……。


「うわっ!」と水を汲んでいた舎人が叫んだ。「何だこりゃ!」「お、お、おい……」


 佳卓がその声の上がった池の畔を振り返る。次から次へ桶を投げ込まれて波打っていた水面は、建物を焼き尽くそうとする炎を映して紅くきらきらと輝いていた。


 佳卓はこのとき、世にも不思議なものを目にした。


 池の水の放つ煌めきが闇の中で形を取る。光が空中で凝り固まって薄い玻璃の破片のようになり、それが何枚もゆらゆらと空中に漂い始める。


「これは……何事か……」


 うっすらと光る玻璃の剝片が連れ立って天に昇り始めた。焔の届かぬ夜空の中で紅い色を失ったそれらは白っぽくなり、ついで翡翠のような色の燐光を放ちながら、しゃらしゃらと微かに硬質の音を立てて集まり、重なり、連なっていく──まるで鱗が並ぶように。


 天に姿を現したその姿を見て舎人たちが「蛇……?」「大蛇……?」と呟く。


 それは一度身を丸め、再びその身を伸ばす。蛇に似た生き物はその姿を変えていた。鱗を集めた長い胴体からは猛々しい四肢が生え、長い頭には鹿の角が伸びている。


「違う。これは龍だ!」と佳卓が叫んだ。


 絵物語でしか見たことのない龍が禁裏の上空を駆けまわり始める。龍は雲を呼ぶ。それも雨雲を。ポツンと水滴が佳卓の額に落ちる。ポツンポツンと滴り落ちる雨は、次第に量を増していく。


「助かった!」


 これほどしっかりと雨が降れば、すぐに火は消えてくれるだろう。


「ありがたい……」と兄の左大臣が隣で呟く。よほど安堵したのか、その目には涙があった。兄は佳卓の肩を抱いた。


「あの龍は新帝を助けるために姿を現したのだ。主上は天に守られていらっしゃる」


 その弾む声に佳卓も何度もうなずいた。「よかった。本当に良かった……」


 新しき女帝には天の加護がある。佳卓も兄もこのときそう確信した。


 ──しかしながら、この二十年後、その龍は姿を消し、そして女帝は退位に追い込まれることになる。

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