第5話 水汲みの列(二)
自分の言葉に余計に悲観的な気持ちになったらしい女は、恨めしそうに都の東北の比瑛の山の方に顔を向ける。龍が棲むその嶺を。
すらりとした姿の山はこの距離からは紫色の影にしか見えないが、山肌はくまなく青々とした森に覆われている。
この京の都では二年続いた旱のために朱雀大路の柳の並木も枯れてしまったし、貴族たちの趣向を凝らした庭園の前栽も維持できなくなった。錦濤帝が少しでも水が民に行き渡るように不要な遣水や池などを持つことを禁じたからだ。
比瑛山への入り口には龍神を祀る社がある。
どうしてその境目でこうもくっきりと差が出るのか分からないが、ともあれ龍神の棲む神域に雨が降るのは確かだ。だから比瑛の山に龍はいる。それなのに京の都に雨が降らない。
中年女は同じ話題を繰り返す。
「早く『龍呼ぶ妃』に出てきてもらいたいけど、自分が龍を呼べるって分かったって、鄙暮らしが長くて五十過ぎた帝のお妃になりたいと申し出てくれはしないんじゃないだろうか」
芙貴は相手を元気づけようと、できるだけ明るい声で「大丈夫ですよ」と答えた。
「私、これでも宮中の事情に明るいんです。実は清穏帝の皇后だった女院様のお屋敷で働いていて色々聞いてるんです」
父であるクソ帝の簒奪を生涯恥じておられた清穏帝は、嫡流の錦濤女帝に位を譲るために御子を儲けようとなされなかった。ゆえに入内された皇后様とも男女の仲ではなかったそうだが、優しく思慮深い后はよく夫君の帝を支え、いわば親友とも言えるような信頼関係で結ばれていた。女東宮であられた今の錦濤帝とも後宮で姉妹のように仲が良く、清穏帝が亡くなられた後も女院号を奉られている。
今の邸宅に移ってからも、女院はときどき錦濤帝を訪問することがある。錦濤帝は若い頃から明るく朗らかな方で、とても楽しい方だそうだ。芙貴は禁裏に同行できるほどの上臈の女房ではないので、お目にかかったこともないけれど。
ただ、清穏帝と錦濤帝の二代の帝の側近である左近衛大将の佳卓という方がちょくちょく女院様を訪ねてくるので、廂に控える芙貴にも彼のする話は耳に入る。
「近衛大将の佳卓様が二十年ぶりに都に戻ってこられた日立宮をお出迎えになったそうで、今のご様子をこうおっしゃってました。『もともと気品のある方だが、それは長い鄙暮らしでも全くお変わりない。髪には幾筋か白いものが混じるようになられたが、そこがまた渋くていい男ぶりだ』って」
「へえ。佳卓様も若い頃は眉目秀麗で有名だったし、年を取った今だってそれこそ苦み走ったかっこいい美老年だよね。その佳卓様がお褒めになるなら……」
「それに、日立宮は東国にいる間も都から大量の書物を取り寄せて読書を忘れず、御子君にもいつ都に戻っても大丈夫なように高い教養を身につけさせておいでだとか。そうそう、この御子君は東国で武芸も磨いてこられたそうで、文武に優れた若君にお育ちになったそうですよ。それに見た目もなかなかいいんですって。佳卓様が褒めてました」
女の表情が少し明るくなる。
「そうかい。じゃあ……」
「龍を呼ぶ姫君が何歳か分かりませんけど、次の帝の日立宮と年齢が釣り合わなくてもその御子君の妃になればいいわけですし。新しい帝と東宮が、それぞれ上品で渋い美中年と文武両道の美青年だって都中に噂が広まれば、どんな深窓の姫君だって喜んで妃になりたいって名乗り出ますよ、きっと」
女は初めて「そうだといいねえ」と顔を綻ばせた。
芙貴もまた、自分の言葉が相手の心を軽くしたことにちょっとした達成感を覚えて微笑みかけた。
しかしながら。せっかく会話の雰囲気が明るくなったちょうどこのとき、行列の先からただならぬ女の悲鳴が聞こえてきたのだった。
声は叫ぶ、「泥棒!」と。
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