第6話 水泥棒(一)

 芙貴と中年女はお喋りしながら列の進むのに合わせていたから、このときは大学寮の敷地の前にいた。同じ並びの神泉苑の門を、これから水を汲みに入る人と水を汲んで出てくる人とが行き交っているのも視野の片隅に入れていた。


 その入口付近に色褪せ垢じみた布衣ほいを着たガラの悪そうな男が三人。その一人が壺を手にしていた。「返して!」と叫びながら追いすがる女を足蹴にし、さらに、別の男が老いた男からも水瓶を取り上げる。


 老人は周囲に「だ、誰か、助けて下され……」と訴えるが、動く者は誰もいない。水を汲み終えた人々はそれを奪われるまいと足早に立ち去るし、水が欲しくて列に並ぶ人々も、ここで列を離れればまた再び長い列の最後尾に回るのかと思えば身動きが取れない。


 それは芙貴だってそうだ。そうだが……。


 水を奪い取った三人組の賊がこちらに駆けてくるのに、どうしてもじっとしていられなかった。


 芙貴は自分の水瓶を地面に下ろすと、その三人組の前に両手を広げて立ちはだかった。


「卑怯者! 人がちゃんと列に並んで手に入れた水を奪うなんて!」


 男たちは立ち止まると、芙貴を妙に粘っこい目つきで見ながら口々に言う。「なんだあ、お前。水干なんか着てるが、女じゃねえか」「変な女だ」「へっ。女のくせに男の格好をすれば、男並みになれると思ってんのかよ」


 芙貴は怒鳴る。


「私の格好なんてどうでもいいでしょ! 水を返しなさいよ!」


 賊は顔を見合わせた。「こんな妙な格好で外をうろつく女だ。ろくな氏素性の女じゃねえな」「だが、なかなか顔はいい」「さらって売り飛ばせば金になる。しっかりした後ろ盾もない娘なら後腐れもない」


「な……」と絶句する芙貴に、男の一人が自分の持っていた水瓶を置いて近寄ってくる。 


 芙貴は大学寮の門の方へ逃げ出した。大学寮では倫道が働いている。学生ではなく雑用係でときには門番もする。ひょっとしたら倫道がいて助けてくれはしないだろうか。


 大学寮の門から縹色の袍の下級文官らしい男が出てきた。良かった! あの袍は倫道だ。いい布を手に入れた芙貴が自分で仕立てて彼に贈ったものだ。裾が不格好にひきつれているから、裁縫が下手な芙貴の縫ったものに間違いない。


「倫道兄さん! 助けて!」


 しかし、その声にこちらを向いた顔は倫道ではなかった。え、どういうこと? 芙貴が心を込めて倫道に贈った袍を、どうして他人が身につけているの? しかも……。


「貴女、女じゃないの!」


 水干姿の芙貴が言うのもなんだが、どうしてこの女は男装しているのか? しかも倫道の袍で。


 芙貴を追ってきた男が、今度は袍を着た女に目をつけた。


「なんだあ? 近頃の若い女は男の格好をするのが流行りなのか? この女もどうも胡散臭いな」


 男は仲間を呼んだ。


「おおい。もう一人上玉がいるぞ。この二人を売って金に換えた方が、水泥棒より実入りがいいぜえ!」


 男は袍を着た女に近づくと、ひょいっと肩に担ぎ上げた。


「きゃあ!」と叫ぶのに、芙貴も「何すんのよ!」と怒鳴ったが、仲間の男が背後から芙貴を羽交い絞めにする。


 そこに「どうした!」と若い男の声がした。今度こそ倫道兄さんだ!


「兄さん、助けて!」


 大学寮から出てきた倫道は助けを求める芙貴と目を合わせた。そのはずだった。だけど、すぐに自分の袍を着た女に目を向ける。


沙智媛さちひめ!」

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