第4話 水汲みの列(一)

 まだ午前だというのに、既にじっとりと熱を孕んだ空気が都中の大路小路に淀んでいる。その中を朱雀大路まで歩いてきた芙貴の口から溜息が漏れた。神泉苑で水を貰おうとする人々の長蛇の列は、神泉苑の隣の大学寮の敷地の前を過ぎ、朱雀大路にまで続いていた。


 老若男女がそれぞれ自分の持てる最大の容器を抱えている。どの顔も疲労の色が濃い。


 芙貴のように大きな邸宅に仕えているわけでもない民は、毎日毎日神泉苑まで水を汲みに来るか金で水を買うかして、手に入っただけの水で耐えるしかない。二年前も昨年もそうだった。そして今年の夏も……。こんな暮らしがいつまで続くのかと思えば、暗澹たる気持ちに陥るのも当然だ。


 芙貴も両手で水瓶を抱えその列の最後尾に並んでいると、男たちの大声が聞こえてきた。


「……!」「……!」


 朱雀大路の真ん中を、目鼻のくっきりした体格の良い直垂姿の男二人が何ごとか言葉を交わしながら北上し、そして遠くに見える朱雀門から大内裏の中に入っていった。


 芙貴の前に並んでいた中年の女が眉を顰めて芙貴に話しかけてくる。


「嫌だねえ。東国の男たちが往来に増えて、わけの分からない訛りで喚き散らして」


「新しい帝が東国から連れてきた人たちなんでしょう。じきに都になじみますよ」


 女は待ち時間を芙貴相手のお喋りで紛らわせたいようだった。


「今の女帝が西国でお育ちだったのは仕方ないけど、新しく帝になる方はなんでまた東国にお下りになってたんだろうねえ? 元は京の都の人でも 長く都を離れていれば、すっかり鄙の空気に染まってさっきの男連中みたいに粗野になっちまってるんじゃないだろうか」


 今の女帝は都の西にある港町で生まれ育った。海を隔てた西の大陸からの貿易船が出入りする賑やかな商いの街だそうだ。西の大陸からの客人が「美しい波濤の先にある港」という意味で錦濤きんとうと名付けたという。それで今の女帝は錦濤帝と呼ばれている。


 なぜ錦濤女帝が西方におられたかといえば、父宮が正統な東宮であったにもかかわらず、その父帝の弟つまり叔父に位を追われ、西国に流されてしまったからである。


 元東宮から力づくで帝位を簒奪したこの叔父にも一応それなりのおくりなはあるそうだが、芙貴をはじめ庶民は「あのクソ帝」としか呼ぶことはない。

 その「クソ帝」呼ばわりされる男の後、その一人息子が帝位を継いだが、この方は父親に似るまいとする意志が強くとても高潔な方だった。その清らかで温和な人柄から清穏せいおん帝と諡されている。クソ帝の没後、若き清穏帝が即位後最初にしたことが、錦濤にいた十歳の姫宮を東宮として京に招くことだった。


 中年女は嘆く。


「あーあ。クソ帝の代で荒れた世の中を、清穏帝が立て直しになって、錦濤女帝の御代では西の大陸から珍しい品々が入ってきて京の都も一段と華やかになったもんだよ。だけど次の帝が東国から荒々しい男どもを連れてくるとなると、いったい京の空気はどうなるんだろうねえ」


 二十年にわたって善政をしいた錦濤女帝は「龍呼ぶ妃が旱魃から世を救う」とのお告げを聞いて、譲位を決意した。女帝ゆえに結婚もしない立場だったので、次に帝位につく方については女帝の即位後早々に決定済みだった。


 その男君は女帝から五代遡った帝の弟宮の孫にあたる。要するにかなり遠い親戚だ。これだけ範囲を広げれば他にも二、三人候補はあったそうだが、人柄の良さから左右の大臣、それから文武に優れた帝の側近である左近衛大将などがこの方を推し、帝もこの方に決められた。


 この方は確か錦濤女帝より十歳ほど年長だとか。錦濤女帝が御年二十二で即位された頃、この方は三十歳を過ぎ既に氏を賜って臣籍に下っていたが、改めて親王宣下を受けた。


 しかし、不可解なのはその後だ。親王は将来的に東宮になることを約束されたものの、その前に東国の日立国の太守となった。


 日立国は東国の中でも豊かで格の高い国で、その太守には親王が任じられることが多い。けれども、それはこの国から収入を得るのが目的で、実際には赴任しない。遙任だ。


 それなのにこの親王は妻子を連れて東国にお下りになった。以来この方は日立宮と呼ばれている。


 中年女は続ける。


「だいたい日立宮は結構なお年だそうじゃないか。今の女帝が御年四十二だから、もう五十路過ぎだろ? そんなご年配の方じゃ、龍を呼べる姫君がいたとしても妃になろうと名乗り出てこないんじゃないかと私ゃ心配だよ」

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