第54話 嶺上(一) 

 翌朝。芙貴は佳卓に連れられて錦濤院のお傍に上がった。退位後の院が仮住まいしている離宮の門の前には青海の姿もあった。佳卓によれば、青海も随身として同行するが、院からずっと離れた列の最後尾を歩くことになっているそうだ。


 初めて会う院は、単の上に、上皇が着る色とされる赤白橡あかしろつるばみ色の袿を身に着けていた。


 佳卓が芙貴に「どうだね? 比瑛の山は涼しいそうだが、院のお召し物はこのようなものでいいかね?」と問いかける。


「そうですね……。念のため小袿もお持ちになればよろしいかと……」


 佳卓はちょっと考えてから「濃き色の菊木瓜紋の小袿があったはず」と取りにいかせた。


 準備が整い、院は輿に担がれて比瑛の山に向かう。芙貴はその隣を徒歩で付き従いながら、院のお姿にちらちらと目を走らせる。実のところ芙貴はある意味拍子抜けしていた。


 女院をはじめ、芙貴の周りの人々は錦濤院を敬愛している。明るく朗らかなお人柄や、政治手腕など褒め称える声はしょっちゅう耳にしてきた。


 ただし、そう言えば「美貌の」などと容姿を賞賛されるのは聞いたことはない。別に不器量というわけではない。格別に美しいとまでは言えないが、愛嬌のある顔立ちだと思う。


 輿の上の院から「芙貴」と声がかかった。温かみを感じる口調だ。


「そなたの水干姿、よう似合っておる」


「あ、ありがとうございます」


 院はさすがに年齢相応に頬の線が弛んでいるし、輿から芙貴に向けて俯いているので顎の辺りの肉付きも目立つが、その口角はしっかりと上がり微笑んでいるのがよく分かる。


「ふふ。私の幼い頃に仕えてくれていた姉のような従者も男装が良く似合っていた」


「佳卓様の奥方様ですか?」


「そうそう。今日も私に付き添いたいと申してくれたが、昔のように剣を振るうことも今はないし。今回は山に登るということで、若くて健脚な者を連れてくることにした。芙貴はこの山の中に入ったことがあるとか。様子など教えておくれ」


「はい。あの……嶺上の長女の沙智媛がふもとの貴花藻社から先は磐舟に乗せてくれると思います」


「宙を飛ぶ舟じゃな」


「ええ、すごいんですよー」


「ほほ、それは楽しみじゃ」


 みんなが噂するように、錦濤院は活発な方で、この年齢でも新しい体験を喜ぶ瑞々しさがあるようだった。


 貴花藻社から沙智媛に案内されて、院と佳卓、そして芙貴とが磐舟に同乗して山上を目指す。青海を含む何人かは馬で、それ以外は徒歩で山を登ることになっている。


 錦濤院は磐舟が空を滑り出した際に「ほほう」と率直な驚きを示したが、その後は静かに山の頂を見据えていた。さすが一国の帝だっただけあり、その姿におかしがたい威厳が漂う。


 磐舟は、今度はひときわ大きな構えの邸宅の懸造の釣殿に着いた。色とりどりの襲を纏った年嵩の女房が「こちらへ」と院と佳卓を単廊の奥へ案内する。沙智媛は地面に下りると小走りで邸の奥に向かった。芙貴も庭に下りると、院と佳卓の二人が簀子縁を巡って正寝へ歩くのについていく。二人が母屋にまで入ったところで、芙貴も階の元に控えることにした。この頃に騎馬で山を駆けあがった随身たちもやってきて、その最後尾に青海の姿も見えた。


 母屋の奥の繧繝縁の畳の上に男君が座っている。まばゆいほどに輝く金の髪、整った眉の下には宝玉のような青い瞳。これが嶺上か。

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