第76話 清涼殿の月(三)

ある夜。内裏に宿直とのいをしていた佳卓が姫宮に呼び出された。


「佳卓。これから主上をお見舞い申し上げます」


「このような夜更け過ぎに……」


「主上も夜遅くまで寝付けずにお過ごしだって言っていたでしょう? 起きておられるならお話したいわ」


「では、誰か女房を伴って……」


「ううん。佳卓、佳卓一人がついてきてちょうだい」


 姫宮は清涼殿につくと、やはり主上の傍に控えていた女房をさがらせた。帝位をひきつぐにあたって、二人きりで話をしたいとおっしゃったのだ。


 夜半を過ぎていたが主上は起きておられ、そして何ごとかを姫宮と話しておられた。佳卓は東の庭に下りる階の下で控えていた。


 お二人の交わす声が次第に乱れていく。何があったのかと佳卓が緊張していると、足音が近づき御簾が払いのけられ、主上が姿を見せられた。そして階の下の佳卓にお命じになる。


「佳卓。東宮を御在所の梨壺にお戻し申し上げよ」


 その後ろから姫宮が追いかけてこられた。


「嫌です! 私は帰りません。私、私は主上と……主上のお傍にいたい!」


「東宮、戻りなさい。貴女は一時の気の迷いに取りつかれていらっしゃる」


「いいえ! いいえ! 私はずっと、ずっと前から主上のことを……。主上だってお分かりでいらしたはずです!」


 涙交じりの姫宮の声に主上は苦しそうに目を瞑った。


 佳卓はこのときになってようやく、お二人の間には男君と女君として想い合う心があるのだと気づいたのだった。


 そして、このお二人には普通の男女以上に互いを求めあう気持ちがあることも。


「主上がいなくなったら、私はたった一人。この世でたった一人の帝になってしまいます」


「東宮、そこにいる佳卓をはじめ貴女を支える臣下は多くいるであろう」


「臣下は臣下だわ。私がしなくてはならないのは、彼らの良き主であること。帝位にあることの孤独や寂しさを分かち合うことはできないし、そうするべきでもありません。私は主上がいらっしゃらなくなるのが……怖い。とても怖いんです」


「東宮、私も貴女がいるからこそ、帝位の重圧に押しつぶされずに済んだと感謝している。確かに私の亡き後の貴女が心配だが……」


「主上、だから私に思い出を下さい。私がこれからもよすがにできる思い出を……」


 それでも主上は首を振り、そしてやはり佳卓に「東宮を梨壺へ」と命じられた。そのお姿は、佳卓という臣下の前で、その生が終わるまで良識的な帝として振る舞おうとなさっておられるもののように佳卓は感じた。


 姫宮も佳卓に顔を向け、佳卓自身が結婚していることを半ばなじるようにおっしゃった。


「佳卓だって私の翠令に恋をして、今は夫婦として共に暮らしているじゃないの!」


 確かにこの頃の佳卓は恋仲となった翠令を妻として自邸に迎え入れていた。


 主上は繰り返し「佳卓、東宮をお戻しせよ」とおっしゃるが、その悲痛なお顔が、それが本心ではないと告げている。


 主命であるが、それを発する主上自身は違う心を持っておられる。臣下としてどうして差し上げるべきなのか。


 佳卓はお二人をあまりに気の毒だと思った。それに、恋女房と幸せにしている自分に、この二人の恋を阻む権利などないとしか思えなかった。死がお二人を永遠に隔ててしまう前に、心置きなく睦み合う時間があってもいいはずだ。その逢瀬を自分一人が胸にしまっておけば、それで済むことなのだから。


 佳卓はただただその場に平伏して動かなかった。


 やがて二人は母屋の奥に戻っていかれた。佳卓は清涼殿の庭の隅に下がって夜明けを待った。月が蒼く輝く美しい夜だったと記憶している。


 夜の空気が白みはじめた頃、御簾内から女君が出てこられた。


「姫宮、少々失礼を」


 佳卓は階を昇って姫宮に近づき、その乱れた髪やうまく着付けられていない衣を整えて差し上げたのだった。

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