第66話 宝珠(四)

 山上の邸宅はどこも格子を下ろしていた。ぽたぽたと屋根から滴る水音に混じり、中から人の言い争う声が聞こえるところもある。錦濤院の遷都宣言や令王の動きで嶺人たちも混乱しているのだろう。


 誰にも見つからないよう、足音を立てずに小走りで道を急いでいると、遠くで「パアーン」という高い音が弾け、山肌で反響を繰り返しながら山上にまで伝わってきた。青海が堰の本体である結界を破ったのだ。


 龍ヶ淵に近づくにつれ、大量の水が動く轟音が耳を震わせるようになる。岩場から淵を覗くと、以前は静かに淀んでいた翡翠色の水があちこちで大きな渦を作り、中天の太陽から降り注ぐ光をも巻き込むようにして勢いよく流れ下っていた。


 岸辺の崖の、濡れててらてらと黒光りする岩肌がどんどん下に広がっていき、水位が下がっていることが見て取れる。岩場からやや下ったところに目を凝らすと媛の言うとおり吊橋が沈んでおり、それがだんだんと水面から姿を現し始めた。


 芙貴は上流に龍がいないか目を向けてみる。少しずつ水の減っていく淵の底で白い鱗を持った龍は静かに眠っていた。「おーい」と前と同じように芙貴が叫んでもピクリとも動かない。


「今日は起きないわね」とこぼす芙貴に、媛が答えた。


「それが普通なんです。あのとき、芙貴さんと青海さんの声で動いた方が不思議なんです」


「芙貴」と倫道が芙貴の背を軽く叩き、下流を指さす。


「橋が全て水の上に出てきたぞ」


「うん。よし、走るわよ!」


 その先の祠に嶺上が龍を操る何かがあるはずだ。嶺上たちが異変に気づいて動き出す前に、先にそれを手にしなければ。


 三人は橋を駆け抜け、向こう岸の斜面に着くと息を切らせながら登った。普段水に浸かっていないあたりは樹々に覆われていたが、その森の奥に古びた祠がある。


 媛がその手前で一度立ち止まり、それから慎重な足取りで一歩一歩その祠に近づいた。そして扉を開ける。誰も来ないと嶺上が油断しているからか結界は張られていなかった。


 媛が祠に片手を突っ込み「これかしら」と何かを取り出した。その掌にちょうどおさまる大きさの真っ黒な真球だ。怪訝そうな面持ちで「宝珠……でしょうか?」と芙貴に差し出す。


 龍ヶ淵近くの秘密の祠に祀られていたのだから、龍に関する宝珠か何かなのだろうと思われるが……。芙貴も龍を操る呪具がどんな見た目なのか確たる知識はない。  


 宝珠という言葉の響きから、その色は真珠のような白か黄金色、あるいは玉虫色などだと何となく思い込んでいた。だから、この真っ黒な珠に少々戸惑ってしまう。


 芙貴は媛からそれを受け取るとためつすがめつしてみた。そして、この珠がごくごく微かな力ながら天から引っ張られていることに気づいた。その力に導かれるように芙貴が片手で珠を持ち上げると、腕に込めた力以上に早く、珠が浮き上がるようにぐいっと上に動く。


 その黒い珠が地上から天空へ影を投げかける。それは遠く太陽にまで届いたようだった。丸い日輪が部分的に覆い隠される。


 倫道が「あ!」と声を上げたので振り向くと、彼は地面を指さしていた。

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