第79話 清涼殿の月(六)
そう言いながら、芙貴は自分の頭の中で何かを考え当てたらしい。
「あ!」と小さく叫んだ芙貴が視線を佳卓に向けたまま、東宮様の袖を引いた。
「佳卓様……じゃなくて、佳卓。錦濤女帝の即位の年に内裏が火災で焼け落ちたのよね?」
「そうなんですか? 芙貴さん」
「私、沙智媛ほど文献を丹念に読み込まないけど、パラパラ昔の記録を読んでて、錦濤女帝の即位の頃に内裏が焼けたってことは覚えてる」
「内裏の火災……」
「錦濤帝の即位のほんのすぐ後の大事件だから印象に残っているの。その火事では清涼殿も紫宸殿も焼けてしまった。だから錦濤女帝は内裏から外にお移りにならざるをえなくなった……」
その行き先は……。東宮様がお問いになる。
「ひょっとして、当時の錦濤女帝が、新しい内裏が再建されるまで御在所とされたのは…」
佳卓はうなずいた。
「私の邸宅でございます。錦濤女帝には外戚がおられず里内裏もありませんでしたが、我が家は妻を通じて親しくしておりましたのでこちらにお移りいただいたのです」
他の公卿からは「近衛大将より大臣の邸宅の方が格が高いだろう」という声も上がったが、佳卓は「即位直後に内裏が焼亡し、錦濤女帝はその衝撃で気鬱に陥いっておいでだ。立ち直るために姉のように親しい妻のもとで英気を養いたいと仰せである」と押し切った。
錦濤女帝の気鬱は表向き一年近くに及んだことになっている。赤子を産み、産後の体調が整うまで周囲にはそう伝えて近衛大将の邸宅の奥深くに隠れ住むように過ごしておられた。
東宮様が佳卓をじっと見つめ、呻くようにおっしゃる。
「その火災……偶然か……それとも……」
佳卓は頭を伏せた。
「怖れながら、私がこの手で火を放ちました」
しんと沈黙が下りる。これまで降り続けてきた雨の音がいっそう大きく感じられた。久しぶりの雨にはしゃいでいるらしき雑色たちの騒ぐ声が遠くで聞こえる。
絞り出された東宮様の声は掠れていた。
「私を……私一人を世に送り出すために……何と大胆な……」
「死者はおりません。けが人も出ませんでした。必要以上の類焼もございませんでした」
それに危険を冒してもやらねばならなかった。
「清穏帝の父帝から皇位の継承が不安定となりました。御代替わりでつまづくと、世が乱れます。こうなると内裏の殿舎の存亡どころの話ではなく、民の生活が立ちゆくかどうかにまで関わってくる大問題になりかねません。国全体の行く末を考えても、清穏帝から貴方様まで四代の帝の間は混乱なく引きついでいかねばならぬと私は愚考いたしました」
「それでも火を放つとは……たまたま焼け広がらずに済んだが、一歩間違えれば……」
「火の勢いが思った以上に強く、私も肝を冷やしました。ですが、このときの錦濤女帝には龍神のお守りがありました」
そう、あのとき、龍が現れて雨を降らせて下さったのだ。
「このときの私は、錦濤女帝には龍のご加護があると兄と共に喜んでいたものですが。その退位のきっかけになったのが龍の不在とは皮肉なものです……」
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