第78話 清涼殿の月(五)
佳卓は思わず頬に手をやった。
「今、ここに私の妻がいなくてよろしゅうございました」
「……?」
佳卓の言葉の意味が分からない東宮様と芙貴は戸惑った様子で顔を見合わせる。
「懐妊を知った妻に呼び出された私は、錦濤帝と妻の前で『産み月はいつ頃か。堕胎は可能か』といったようなことを口走ってしまったのです」
床に崩れ落ちてしくしくと泣く女帝は、帝としての日頃の威厳も消え失せ、ただの若い娘にしか見えない弱々しさだった。その背を強張った顔でさする妻の姿を見やりながら、佳卓が苦い思いで堕胎を請け負ってくれそうな知り合いの祈祷師や薬師の顔を思い浮かべていると、突然ひゅんと何かが空気を切り裂き、ほんの一瞬遅れてパシっと高い音が弾けた。
彼が自分の頬に強い衝撃を覚えて反射的に頬に手をやり視線を上げると、目の前に鬼の形相の妻がいた。
妻に平手打ちをされたのだと理解した瞬間、返す手で反対側の頬を張られた。
「翠令……」
「貴方という方は……。見下げ果てました! そんな男だとは思わなかった!」
「……」
「貴方は近衛大将でしょう! 近衛とは帝をお守りするのがその務め。いいえ、近衛大将だけではない。刀を手に取る武人は誰かを守るために戦うのです。それをなんですか! 貴方は罪もない御子を、帝の皇子を殺めようなどと……」
「……」
錦濤の姫宮が泣き腫らした目で佳卓を見上げた。
「佳卓、この子を取り上げないで……。私、産みたいの……。殺さないで……生かしてあげて……」
その場面を想像しているのか芙貴がくすんと鼻をすする。隣の東宮様がそっと彼女の肩を抱かれた。あのときの胎内に宿っていた命は、もうこんなにも大人だ。
「私は近衛大将であるにもかかわらず、とんでもない心得違いをしておりました。妻にもその場で平謝りに謝りました。私が命を懸けるべきは、赤子を殺めることではなく、お守り申し上げることだった……」
「私を育てて下さった養父上、今の日立帝もそれにご協力されたということか?」
「兄の左大臣と相談し、二人で頼りになる皇族の方を探しました。当時から日立帝は温厚篤実で知られた方。この方に全てを打ち明け協力していただいたのです」
当時の日立帝は臣籍降下されていたものの、与えられた官職に常に真面目に取り組む方だった。そして、改善が必要だと思えば、前例を変えることも厭わない。
皇位継承から外れた立場だが、清穏帝とその女東宮にも忠誠心が篤く、「賢帝と聡明な姫宮を盛り立て、その藩屏として生きることをこの世での役割としたい」と公言していた。
それに、日立宮は早くに婚姻していた妻に子がないまま長い年月が経っていたにもかかわらず、この妻一人を大切に遇し、妻を悲しませるくらいなら別に子などなくてもいいと周囲に語っていた。
この日立宮こそ先々をお任せできる方だと兄の左大臣と佳卓は考え、その邸宅に人目を忍んで相談に出かけた。
清穏帝と錦濤の姫宮の間の皇子。その存在を聞かされた当時の日立宮は大いに驚いたものの、「よろしゅうございましょう。二代の帝の間に生まれた尊い皇子。私が責任を持って大人におなりあそばすまでお育て申し上げます」と、これから生まれる数奇な運命の赤子の養育を引き受けてくれたのだった。
そこまで聞いた芙貴が東宮様に「良かったわ。貴方様が生まれるのを助けてくれた人がいて」と微笑みかけ、東宮様も少しほっとしたご様子をお見せになる。
「親王の立場にお戻りになられた宮様に日立太守になっていただきました。それも遙任ではなく実際に日立国にまで赴任して下さるようにお願い申し上げた」
「私という赤子の出生を隠すためか」
「そうです。京の都にいては、どこの誰が気づくか分からない。だから遠い東国で貴方様を育てていただくことにしたのです」
「そうか……」
女性であり女院に仕えていた芙貴にとっては、錦濤女帝が妊娠出産をどう隠したのかが気になるようだった。
「女院様の邸宅では、清穏帝の皇子なら人目に付かずに妊娠出産は難しいだろうって、みんな言っていたわ。ましてや錦濤院は普通の女君ではなく、帝として多くの人々に注目される立場でいらっしゃった。どうやって隠し通すことができたの……?」
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