第28話 龍が淵(二)

 行く手に天を衝くほどに高く急峻な滝が迫る。「わ、ぶつかる」と芙貴が目をつむった瞬間、磐舟は媛の言ったとおりふわりと水から浮き上がった。


「うわあ!」


 再び芙貴が目を開くと、磐舟の舳先が空を目指していた。滝を左に見ながら宙を昇り、滝を越えた後も水の流れに戻ることなく、濃淡様々な緑に覆われた山の斜面を見下ろしながら空気をかき分け、山上に向かう。


磐舟の下から小鳥の囀りが聞こえ、舟の航路沿いを鳶が上から下に滑空する。まるで自分たちも鳥に混じっているかのようだ。


 山の頂から少し下がった辺りに斜面を削って建てられた邸宅がいくつか見えてきた。どの邸も、正寝だけでなく東と西と北の対屋を全て備えている。京の都でもこの全てが揃っているのは大貴族に限られるのに豪勢なものだ。南の庭だけが狭く、それを囲む釣殿が懸造りで崖から突き出ている。


 下界の邸宅と異なるのはその屋根だ。檜皮葺の屋根ではなく全て瓦葺きとなっており、その釉薬が陽の光をきらきらと反射し光の粒をまぶしたかのように見える。


 磐舟は邸宅群の外れにある屋敷の釣殿の先に止まった。そこから単廊を通り、中門で地面に下りるとその邸宅の敷地の裏手に回る。森の樹々を渡ってきた風がひんやりと涼しい。


「比瑛山の上って夏でもこんなに過ごしやすいのね」


 下界ならこの時間帯は外出を避ける暑さだ。女院邸の奥で女ばかりであればスケスケの薄物で過ごしたくなる頃だが、山の上は倫道の水干でもやや肌寒い。


 この邸宅群を抜けた先の山道を行けば龍ヶ淵を覗き込める岩場があるという。


「近道をしましょう」と沙智媛は邸宅の敷地を出たり入ったりしながら進んでいく。こうしていくつかの殿舎の傍を通っているうち、芙貴は釉薬瓦の軒端から水の滴がぽたぽたと垂れているのに気づいた。別に雨は降っておらず晴天だ。雲一つない空の青は山の頂から近いせいか目に沁みるほど色濃い。


 ここに到着する直前に雨でも降ったのだろうかと芙貴が媛に問いかけたとき、行く手の殿舎の御簾内から女が簀子縁に出てきた。金の髪に青い瞳。中年ではあるが、つんと尖った鼻と薄めの唇という顔立ちが、年齢の高さよりもその生まれついての硬質な美貌を強く印象付ける女だった。


「沙智媛、今頃磐舟で帰ってきたのですか。本当に貴女って娘は!」


 その声が怒りを含んでいる。娘と呼ぶからには母親であるようだが……。


「今日は妹の沙恵媛さえひめのもとに許婚の令王(れいおう)がお越しになったのに。貴女ときたら簀子縁に本を出しっぱなしにして大恥をかいたじゃないの!」


「私は何も……」


「ほら、この草紙! 令王が『置きっぱなしですよ』と言ったから慌ててこうして私の懐にしまいこんだんです」


 女はきりきりと癇性な声で話しながら高欄まで近寄ってきて、その下に歩み寄った沙智媛にその草紙を突き付ける。


「お母様。その草紙は私のものじゃありません」


 沙智媛がその草紙を手に取り、パラパラめくるとある頁で手を止め、それを母親に向けた。


「ここに書き込みがあります。これは私の手跡ではありません。沙恵媛のですわ」


 確かに難しい歴史書を好む沙智媛が草紙などを読むとは思えないし、また整理整頓が身についている彼女が何かを出しっぱなしにすることもないだろう。何より手跡が違うのなら、母親の方が誤解しているに違いない。


 母親は憎々し気に顔を歪め、「まああ……」と粘着質な声を出した。やりこめられて誤解を詫びるのかと思えたのだが……。

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