第58話 嶺上(五)
これは佳卓の発想ではないだろう。佳卓はあくまで結界を破り、龍を呼び、そのうえで嶺人に龍を独占することの無益を悟らせると言っていた。京の都に龍を取り戻すことが前提だ。彼はこの京の都で生まれ育ったのだから、京を離れることまで考え及ばないのも仕方ない。それは芙貴だって同じだ。
だが、錦濤という京とは異なる場所で生まれ育ち、東国を治めていた日立新帝に位を譲った院は、もっと広い視野で事態を捉えていたのだ。
予想外の展開に沙智媛も邸宅をすぐには離れられないようなので、一行は佳卓を先頭に馬と徒歩とで山を下りることにした。芙貴は院のすぐ後ろについていく。院が「芙貴」と振り返った。
あれほど爽快な啖呵を切った院は、しかしむしろ憂い顔であった。それでも話しかけられた芙貴は今の自分の興奮を抑えられない。思いつくままに口を動かさずにおれなかった。
「院、すっごくかっこよかったです! あの、なんか、私、すごいなーって思って……」
自分の感激した気持ちを伝えるのにうまく言葉が出てきてくれなくてもどかしい。錦濤院が軽く苦笑しながらもうなずいてくれたのが救いだ。
もっとも、院はすぐに表情を引き締める。
「今日の私は遷都をちらつかせて嶺上に揺さぶりをかけた。遷都せざるをえないなら、もちろんそれを実行に移そう。されど、遷都をしないで済ませられるならしないで済ませたい」
「……」
「このまま比瑛にかすめ取られるくらいなら、新都造営にあてた方が正しい税の使い道だとは思う。日立新帝も朝廷の重臣たちも遷都もやむなしという結論に至った。しかし、最善なのは比瑛に過度に貢がず新都も造らぬこと。民に余計な負担をかけぬのが一番であろう」
「そ、それもそうですね……」
院はどこまでも冷静だった。
「それにこの一件が史書に残ったとき、後の歴史家が時の朝廷は比瑛の嶺上の圧力に屈して逃げたのだと解するやもしれぬ。そのような悪しき前例ができれば、嶺上のように朝廷に無理難題を吹っ掛ける者が再び現れてしまう可能性が生じる」
「そ、そんな……。それはそんな風に悪事の根拠に使おうとする方が悪いです!」
「後世の人々には史書を自由に検討する権利がある。今の我らにできることは、あの嶺上に一矢報いた史実を残すこと。できれば嶺上から龍を取り戻し、この京の都に留まれるのなら留まりたい」
「……」
院は「芙貴は沙智媛と友人だと聞いておる」と切り出した。
「私の代では奉幣使の応対は貴花藻の社で沙智媛があたっておった。あの媛が実質この比瑛の山を動かしていると知っているし、優れた人物だと私も彼女のことは買っておる」
「はい……」
「嶺上の媛に対する態度を芙貴も見ていたであろう。優れた容姿を持ち、そして男である嶺上は決して沙智媛の能力を正当に評価することはあるまい。そのような父を見限り、我らとこの国の歴史を築かぬかと誘って欲しい」
「それは……。私もそうした方がいいと思いますが。ええっと、でも、それは媛に親を裏切れということで……。いや、私はそうしちゃってもいいと思うんですけど、子は親を慕うものらしいので……。えーと、私はよく分かんないんですけど……」
「媛も、説得にあたる芙貴にも、無理強いはせぬ。だが、子だから親に従わねばならぬとは私は思わない。新しい時代を担う世代は、その上の世代の良きところを受け継ぎつつも、悪いところは改めるもの。先ほども言ったように歴史も伝統も変革の積み重ねじゃ。媛は歴史を学ぶのが好きと聞いている。私の言葉も分かってくれるのではないかと思う」
「そ、そうですね……」
「よろしく頼む」
「は、はい……」
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