第82話 左近衛大将の帰還(一)

 龍の登場と久方ぶりの雨に沸き返る都大路を通って、佳卓は自邸に戻った。邸内の者たちも大騒ぎで、家刀自の翠令も慌ただしく過ごしている。佳卓が妻とゆっくり差し向かいで語りあえるようになったのは、夜半を過ぎてからだった。家人が急いで遣水を整えてくれたので、この頃には池に水が張られていた。


 庭の篝火の明かりの中に無数の糸のような雨が浮かび上がる。水をたっぷり吸いこんだ地面から土の匂いがたちのぼり、新しい草木の芽生えを予感させた。


「良い薫りだね」


 翠令が「特に何も焚いておりませんが」と小首を傾げる。


「いや、雨の香りと土の匂いがする。伽羅よりも白檀よりもかぐわしく感じられる……」


 妻も目を閉じて空気を味わう。「さようですね……、良い薫りです」


 酒肴を前に佳卓が今日一日の出来事を妻に語って聞かせた。東宮が天叢雲剣で結界を破り、沙智媛の記憶で宝珠のありかをつきとめ、芙貴が龍を連れてきて『龍呼ぶ妃』となった。


「東宮様にも出生の経緯を……我々の秘密を打ち明け申し上げた。東宮妃様に率直な、実に率直な賛辞を頂いたよ」


妃の「偉い! すごい!」との言葉に、幼い我が子に「しゅごい、しゅごい」と褒められたとき同様の面映ゆさを感じたのだと佳卓は妻に語った。


「翠令、貴女も私を褒めて下さるかね?」


 翠令は大きく笑んだ。


「もちろんでございますとも」


「それは嬉しいね。若い頃、私は貴女に言ったことがある。男は誰でも恋しい女君の前で格好をつけたいものだ、と。剣技も馬も弓も全ての武芸に優れ、仕事ができて頼もしくて、見た目もよくて学識豊かで懐も深い……そんな男だと思われていたいものだとね。男というのは単純な生き物で、女君に褒められれば舞い上がる」


 そして、と彼は付け加えた。


「年を取れば今度は若い世代に尊敬されたいと願うものだ。今日は東宮様にもお妃様にもねぎらっていただき幸せな一日だったよ」


 幼子に「父しゃま、しゅごい」と言われたとき、面映ゆさとともに、自分が親世代となり、人生の階梯を一つ昇ったのだという感慨もあった。孫のときもそうだった。「じいじ、しゅごい」と言われて自分は爺なのだと自覚した。


 年齢を重ねることには重圧や悲しみ、寿命が尽きることへの恐れなどもあるのだが、幼く若い世代からの心からの賞賛には、それらを慰撫してくれる力があるように思われる。


 妻がすっと姿勢を正してかしこまり、両手をついて深々と頭を下げた。


「翠令? どうなさったのかね?」


「私からもお礼申し上げます。貴方様の智謀と尽力で錦濤の姫宮もその皇子も守られ、こうして無事四代の帝の代替わりの道筋がつけられました」


 こう真正面から頭を下げられては落ち着かない。


「いや……なに、貴女に頬を張られ、尻を叩かれたものだから……」


「私がそうしておきながら今まできちんと申し上げたことが無くて……。本来なら東宮妃様より先に私が労わって差し上げるべきでした。全ては貴方様がいて下さらなければ叶わなかったこと。お礼が遅くなり申し訳ありません」


 妻としては誰よりも先に夫の労苦に言及すべきだったのにという後悔の念があるらしい。


「翠令、ともかく顔を上げておくれ。別に貴女が思いやりに欠けていたわけではない。我々は……貴女も私も、錦濤院も日立新帝も、それに兄の左大臣もみんな一つの謀のいわば共犯者だ。これが成功するか否か息を詰めて見守っていて、常に緊張を抱えていたのだから、こういう区切りでもなければ誰かをいたわる心の余裕もなかっただろう。それが当然だ」

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