第70話 龍呼ぶ妃(二)

「兄さん、さっき私が嶺上に捕まっても必ず助け出すって言ってくれたでしょう?」


「あ、ああ。もちろんだ。当然だろ」


「うん。兄さんは絶対に私を助けてくれる。青海もきっとそう。女院様も、錦濤院も、佳卓様も私を救うために動いて下さる。そう信じられる私は、とても幸せな子どもだったんだなあって思う」


「……」


「実の親と死別はしたけどずっと倫道兄さんに守られて生きてきた。私は、兄さんみたいな親に対する激しくて複雑な思い入れとも無縁だったし、媛みたいに父親から込み入った悪意を向けられたこともなかった。そして、今暮らしている女院の邸宅のみんなも私を可愛がってくれる。私はずいぶん周りに大切にされてきたんだなあって思う。だから、いつまでも子どもでいたいなんて甘い考えでいたのよね」


 だけど、と芙貴は媛を見た。


「媛に親を見限れって言っておいて、私が誰かの庇護のもとでいつまでもぬくぬくしているのはおかしいわ」


「そんなことはありません。芙貴さんは芙貴さんに相応しい時期に独り立ちすればいいのですから、何も今……」


「今が相応しい時期なんじゃないかと思うの。今の私には『こうなりたい女性像』がある。錦濤院よ。あんな風にかっこいい女性になりたい。そして今まで私を守って来てくれた倫道兄さんや女院様や女院邸の皆を、今度は私が守ってあげたい」


 倫道は芙貴の心を案じる。


「だが、芙貴は青海に惚れてたんじゃないのか?」


「あー、だってそれは終わっちゃったし。青海は青海で自分の役割に見合った婚姻をしなくちゃいけない。フラれちゃったのよ、私」


「芙貴……」


「青海にも東国と京を繋ぐ役割を果たすように私は言ったわ。それなのに私が気ままな子どもでいるのは、やっぱりおかしいと思う。私も自分の役割を引き受けなきゃ」


 それにさ、と芙貴は明るい笑顔を作った。


「別れた男がどこかの女と婚姻するのを指をくわえて見てるより、東宮妃なんてこれ以上ない華麗な縁組で先に結婚する方がずっと気分がいいもの。ね、宝珠を私に渡してちょうだい、沙智媛」


「い、いいんですか?」


「芙貴、お前、自棄になっていないか?」


「なってない。私は女院様から人に使われるより女主人の方に適性があるって言われてるのよ? つ・ま・り、東宮妃にぴったりな人材なの。私は私の適性を一番いい形で活かすの」


「芙貴……」


「冷静に将来を考えてみてもさ、私に女房勤めは無理なわけだし。女主人向けの適性を活かすなら私の血筋をありがたがってくれる受領と結婚してその北の方になるのが一番現実的だけど、でも会ったこともないご先祖の血で自分が評価されるのもね。それより私は私自身の成し遂げたことで評価されたいわ。それに、これから婚姻する男君の人柄って分かんないでしょ? その点、東宮様なら安心よ」


「どこが安心なんだ?」


「だって。あの青海がお仕えしている相手だもの。青海が主君と仰ぐのだから、きっといろんなことに優れた立派な人ではあるに違いないわ。私はその器量に賭けてみたい。わりと勝算のある賭けだと思うから」


「確かに青海が主と仰ぐ相手ならそれ相応の人物だろうとは俺も思う。だが、それと男女の情愛とは話が別だ」


「でも、会って一緒に過ごすうちにその男女の情愛ってのが湧くかもしんないし。もしお互いに男女の仲になれなくても、女院様みたいに信頼関係で結ばれた仲でもいいわけだし」


「だが……」


「まあ、東宮様の方がどう思うかにもよるわよ。私をお気に召さず、女君として愛せない相手と一緒に内裏で暮らすのは嫌だとお思いになるかもしれないし、逆に、私の方が、青海の主君としては優れていてもこの人と内裏住まいは無理だと思うかもしれない。そもそも、私は自分に女主人の適性があると自信を持っているけど、東宮妃には力不足だと判断されて追い出されてしまうかもしれない。……だけど、そうなっても私にはちゃんと帰る場所があるでしょう?」


 倫道の顔がこれ以上ないほど真剣なものになる。


「ああ、もちろんだ。うまく行かなければ俺たちのところに帰ってこい」


 媛も胸の前で手を組んで前のめり気味に、早口で続けた。


「必ず、必ず、芙貴さんがそうしたいときには私たちを頼ってきて下さいね。私たちは芙貴さんに何ができようと何ができまいといつでも芙貴さんの味方です。うまくいかないことがあっても変に落ち込む前に必ず私たちに相談して下さい」


 ああ自分は幸せ者だと芙貴は改めて思う。自分の能力を試す機会もあり、それがだめでも受け入れてくれる家族もいる。


 嶺上だって、能力に欠けていようと娘の媛にとってはかけがえのない大切な父親だったろうに。それに気づかず男の自分は有能でなくてはならないと自縄自縛に陥っていた彼を、今の芙貴は少し哀れに思う。


「兄さんも媛もありがとう。じゃ、私、東宮妃ってものになってみる」

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