第84話 左近衛大将の帰還(三)

 雨が降る夜は気温が下がる。今夜は佳卓と翠令の長男が孫を見せに訪れていた。その子が腹でも冷やしては大変だと、翠令は孫の寝具を整えにそちらに向かう。


 佳卓は池の水面を見ながら手酌で酒を楽しんでいた。すると、すうっと雲が切れ、月の光が筋状になって池に届いた。夜空の雲を払った風は、池の面にも波を立て、月の影が漣の中に散っていく。


 その水面の煌めきが闇の中で形をとった。光が空中で凝り固まって薄い玻璃の破片のようになり、それが何枚もゆらゆらと空中に漂い始める。


「これは……」


 うっすらと光る玻璃の剝片のようなものが連れ立って天に昇り始めた。最初は白く、そして次に翡翠色の燐光を放つそれらは、しゃらしゃらと硬質の音を立てて集まり、重なり、連なっていく。


 あの、清涼殿を焼いた夜と同じようにして、龍が姿を現した。


 けれどもあのときと違って、池の上にとどまった龍はさらに姿を変え、人の形を取った。


「主上!」


 三十歳にもならぬ間にこの世を去られた清穏帝が池の上に立っておられた。そして水の上を滑るように近づいてこられる。 


 佳卓は頭を伏せた。


 清穏帝は階の上にまでお越しになり、そして佳卓の前に膝をつく。そして片手を肩にかけられた。


「佳卓、よくやってくれたね」


 佳卓が振り仰ぐと、帝は生前同様穏やかに微笑んでおられた。


「私はずっと錦濤の姫宮が心配で、魂となっても清涼殿にとどまっていたのだよ。そして佳卓が清涼殿を焼いたときもそこにいた。火の手が収まらなかったので、比瑛の龍を呼んでその身体に乗り移って雨を降らせたのだ」


「あれは……主上が……」


「龍神となって錦濤帝の世を守るつもりでいたが、龍の身体を比瑛の嶺上に囚われることになってしまい迷惑をかけた。すまぬことをした」


 佳卓はかぶりを振った。


「いえ、悪いのは嶺上でございます。それに……貴方様の皇子が見事に貴方様を、比瑛の龍を救い出してさしあげた……」


 帝は面白そうに「あの、元気いっぱいの妃とね」と笑われた。


「よい妃を得たと思う。何もかも佳卓たちのおかげだよ」


「もったいないお言葉です」


「四代の帝の御代を守り抜いたのは佳卓だ。まことに優れた近衛大将であった。それなのにその功績を公の史書に残すわけにはいかず残念に思う」


「いや、そのような……。私は近衛大将という地位を頂きましたから史料の片隅に名前くらいは残りましょう。それだけでもありがたき幸せでございます」


 帝は少し考えてからおっしゃった。


「平和な時代が続けば、それだけ多くの史料が後世に残る。沙智媛や倫道のような歴史を学ぶ者たちが、いつでもなんどでも史料の中の人物に会いにやってくる」


 そしてクスクス笑って付け加えられた。 


「佳卓には囮を使ったとか部下に女装させたとかそういった挿話が多い。断片的にでも貴方の個性を示す話が後世に残り、そして、それらをつなぎ合わせて貴方を主人公にした歴史物語を書く者も現れるかもしれないね」


「いやいや」と佳卓は苦笑して首を横に振った。


「物語の主人公は女君であるべきです。何しろ私は、男という生き物はイイ女君を輝かせるためにあるものだと思っておりますからな。落ちぶれズボラ姫だった芙貴が見事に龍を呼ぶという筋書きの話の方が、華のある面白い話となりましょう。私は渋い脇役で十分です」


「楽しみですな」と佳卓は申し上げた。


「芙貴のような強くて活きのよい女君の物語が後代の女君たちを励ますこともあるはずです。私は、女主人公を支える脇役として名が使われれば、それで十分というもの。欲を申すなら、作中で大人の男としての円熟味を描写されればそれぞ男子の本懐と申せましょう」


 帝は静かに微笑まれた。


「貴方は最期まで気障を貫くのだね」


「佳卓と言えば気障と当代の女君たちが申します。私はそれを賞賛だと思っておりますので」


 帝がすっと御手で佳卓の瞼をお閉じになった。


「貴方は本当によくやってくれた。疲れたろう……佳卓」


「ええ、さすがに。私も老いましたからな。疲れました」


「ご苦労であった。よくお休み」


 次に佳卓が気づいたとき、彼は水の中にいた。


 身体が重く、そして下へ下へと沈み込んでいく感覚がある。深い淵の、その暗い水の底には白い玉砂利のようなものがあるが、それは人間のしゃれこうべであると佳卓は心の中で了解していた。


 見上げると水面が月の光を受け止めている。夜空のようだが、星が瞬く代わりに、水紋がゆらゆらと揺れていた。下に沈みゆく佳卓とすれ違うようにいくつかの水泡が下から上へ昇っていく。その丸々とした形は、むちむちと肉付きの良い赤子のようだ。


 古き世代は去り、新しい世代が生まれる。月影の中に龍の影が小さく見えた。龍は天高くからその営みを見つめ続けていくのだろう。


 身体の下降が止まった。多くのしゃれこうべの上に自分も積もったと感じ、佳卓は目を閉じる。


  ──私は懸命に生きた


 左近衛大将佳卓の最期の眠りは、ただただ心地のよいものだった。



〈了〉

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龍呼ぶ妃 落ちぶれズボラ姫のいとも華麗なる適性 鷲生智美 @washusatomi

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