1章
1. 地底の村 1
「逃がすな!」
冷えた外気を切り裂いて、怒号が響き渡った。
満月の眩い光明は、地に咲く花の彩り、その鮮やかささえ分かるほどに明るい。
人里離れた静かな森の中、舗装された主要道から外れた林道で、数頭の馬が猛々しく土を蹴り上げる。
「クソッ、速い! 追いつけるか!?」
「ピュシスを盗んで、仲間まで殺しやがった! 絶対に逃がすな!」
手綱を握る者たちが口々に吐き捨てる。彼らは、前方を走るもう一頭の馬を追っていた。
地元の猟師や杣人、物好きな旅人くらいしか通らぬこの狭い道では、あちらの小ぶりな馬の方が利があるようだ。距離が思うように縮まらない。木々の死角に紛れて見失ってしまわぬよう、前を睨みつけるので精一杯だった。
「三手に別れろ。陽動し先へ回りこむ」
やおら、後方集団の先頭を走る青毛に跨る男が手信号を出す。
鋭く冷たい声は、けたたましい馬の足音をものともせず、男たちの耳に真っすぐ届いた。
木々の間を縫う月明りが、青毛に乗る人物を照らした。その顔は、息をのむほど冷ややかなつくりだった。
いかなる光も通さない闇色の髪が、馬の走りに合わせて揺れる。滑らかな肌は、つるりとした陶器のような無機物を思わせる。高い鼻梁や引き締まった輪郭は間違いなく容貌の端正さを物語っているが、近寄りがたいほど冷然としていた。
しかし切れ長のくっきりとした瞳だけは、怜悧な顔立ちに似つかわしくなく、晴々とした爽やかな空の色をしていた。
男の号令に合わせ、よく訓練された馬たちが散開する。
頬を刺す風は、冬の始まりを告げていた。
◆
――カン、カン、カン
朝の訪れを知らせる鐘が鳴る。
四方八方を黄褐色の岩に囲まれた大空洞の中で、鈍い鐘音は無限に跳ね返り、空間の隅々までその音を届ける。
一日に三度鳴る鐘だけが唯一、空のないこの村の人々に時の経過を知らせる。
朝、正午、そして夕食の時間。「鐘鳴らし」を任された者が村の中央広場に建つ鐘楼に登り、古い大鐘を鳴らす。
村にたった一つの、いつでも正確な時刻が分かる「時計」という貴重品は、代々の鐘鳴らしが受け継いでいる。
「穴掘り」のスイの今日の目覚めは、珍しく遅かった。鐘音の残滓に、スイの意識がのろのろと浮上する。
まだ微睡むスイを覚醒させたのは、部屋に入ってきた3歳上の従兄だった。
「スイ、今日はよく寝てるな」
部屋はそう広くない。岩の上に木板、藁、敷布を重ねて作った寝台には、入口から二、三歩で到達する。頭上から降ってきた声に、スイの重い瞼がようやく持ち上がった。
「……アルマ」
「おはよう」
虚ろに名を呼ぶと、従兄は若草色の瞳を細めて微笑んだ。
「珍しいな、鐘が鳴るまで寝てるなんて」
たまにはゆっくりしていていい。そう優しく髪を梳いてくれる手が心地良い。力が抜けそうになる体を叱咤し、スイは起き上がった。
「今日も掘りに行くのか?」
「うん」
「近ごろずっと働きっぱなしだろ。たまには休んだっていいのに」
スイは首を横に振った。
「ううん。上《《》》に行くアルマたちの方が、もっと大変だから……」
はにかんでみせるスイにアルマは苦笑して、薄く茶けてきた髪を揺らす。
「朝食はもう持ってきた。居間に置いてあるからね。母さんは洗濯当番だから早くに行った。今日は俺が上から帰ってきたあと、予習をしよう。スイの成人まであと半年もないから、少し詰めていこう」
アルマは手際よく必要なことを伝えると、スイのこめかみに唇を落とし、部屋を出て行った。
「成人……」
誰もいなくなった部屋で、スイは一人ぽつりと零す。うっかり憂鬱に陥るより先に、勢いをつけて立ち上がる。
居間の食卓の上に用意されていた茹で芋と干し肉を腹に収めた後、寝巻にしている貫頭着から、作業着に着替える。裾の長い上衣を腰ひもでとめて、膝下丈の下穿きを身に着け、動物の革で作られた靴を履く。
丁寧に使ってはいるが、年季には勝てずボロボロだ。黒ずんだ土汚れは何度洗ってもとり切れない。腰ひもに金道具の入った嚢をくくりつけ、スイは家を出た。
体を包む冷涼とした空気は、毎日変わらない。いつ見渡しても、岩石の壁が悠然と視界を埋め尽くす。
スイはこの村、この地下大空洞から出たことがない。「地上」には何にも遮られていない広い世界が広がっているというが、見たことのないスイにはピンとこない。
卵型の地底空間は、おそらくスイが十人以上縦に連なっても届かないほどの高さがある。
岩壁が反り返る空間上部は、人の手が届かないため暗い。反対に、下半分にはあちこちに燭台が設置され、村全体を明るく照らしている。
壁の側面は長い時間をかけて削り開かれ、段状の棚地が作られている。スイの家は、その棚地のうち一番上の段にある。ここに、従兄と伯母と住んでいる。
この村の住人は、全部で48人。石壁を掘って作った洞穴を、家として生活していた。
家を一つ作るだけでも、相当の労力を要する。アルマと同じ部屋で寝起きしていたスイに贅沢にも個室が与えられたのは、数年前のことだ。
皆がスイの功績を称え、褒美にと力を合わせて作ってくれた。
あの時は、素直に嬉しかった。しかし今は部屋にいると、言いようのない罪悪感に身を包まれる。こんなものを貰う資格は自分にはないのに、と。
甲高い泣き声が、うわんと反響して聞こえた。スイの家のある棚地の円周上、一番遠いところで、ふた月前に生まれたばかりの赤ん坊が母親の腕の中で泣いていた。
家の前から最下層に目を向ければ、開けた中央広場がよく見える。せわしなく駆けている人、のんびりと立ち話をしている人、遊びまわっている子供たち。
中央広場から棚地を貫くように伸びる階段を使って、スイは一番下まで降りた。
中央広場は、村の要所だ。時を知らせる鐘楼、水汲み場、水浴び場や洗濯場、炊事場、鶏小屋からきのこ畑。生活に必要なものはほとんどここにある。人々が憩い、常に活気に満ちたこの場所が、スイは好きだった。
「おやスイ、おはよう」
「今日のお水も美味しかったよ」
「スイのおかげだよ。ありがとうね」
広場を通るだけで、村人たちはにこやかにスイに言う。毎日飽きることなく、スイに感謝する。
スイは一つ一つに挨拶を返し、時に話題をすり替えてやり過ごした。
いつものことなのに、いつまで経っても気の利いた言葉が出てこない。きっとアルマだったら、そつなく対応するのだろうけれど。
広場からまた別の階段を上った先には、一際大きな横穴がある。横穴の突き当りには、背の高い木製の大門が構えている。
門の先へ進めば、地上へ出る。許された人間しか通ることができないため、夜の間は村長が厳重な錠をかけ、日中は門の横に当番制の「門守り」が待機している。
「スイ、今日は遅いね」
今日の門守りであるアンジュが、朗らかに声をかけた。
「うん。ちょっと……寝坊しちゃって」
「疲れてるんじゃないかい? 昨日だって遅くまで掘ってただろう」
老齢のアンジュは、皺の増えた手でスイの肩をさすって温めた。
「ほどほどにね。スイは大事な男手になるんだから。フィオは1番、エイダは2番の坑に入っていったよ」
穴掘り仲間は、もう作業に取り掛かっているらしい。スイは横穴の側面、左右に二つずつ開いた坑道を眺めた。
「じゃあ、僕は今日も4番に入ろうかな」
「がんばりすぎないようにね。スイはもっと胸張っていいのよ。スイのおかげで、みんな生活できてるんだよ」
彼女の言葉がつきりと刺さる。
「それじゃあ、行ってくるね」
スイは逃げるようにアンジュに背を向けて、4番坑道に向かった。
この村では、幼子や体の動かない老いた者を除いて、全員が役割を持つ。集落の平穏を維持するため、各々が己の仕事をこなす。
スイが任されたのは「穴掘り」だ。アルマも、成人する前は「穴掘り」だった。
仕事にとりかかるべく、手近な篝火から携帯用の照明器具に火を分ける。
この器具は、地上から持ち帰られたものの一つだ。蝋燭の立つ台座を、曲線を描く透明の板が覆っている。火を守りつつ光を通してくれる、暗所作業には必須の道具だ。
狭い
スイは、脚力だけは少しばかり自信があった。駆け足は村の中でも指折りの速さであるし、高所にもすいすい登ることができる。華奢なのによく動く脚だ、とみんなが評す。
その身軽さを見込んだ村長から、別の仕事をしないかと提案されたことがある。けれど、スイは穴掘りをしたくて断った。
スイは半年と経たず、18歳の成人を迎える。成人すれば穴掘りを卒業し、大人の仲間入りをして上へ出る。
(だから、穴掘りうちに、僕だけの力で結果を出さなきゃ)
皆から「ありがとう」を受け取った時の喜びが、焦燥に変化したのはいつ頃からだろう。スイの肩には日々、小さな重荷が重なり続けている。
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