28. ヴィルヘルム

 正午頃、昼食にありつきたい団員でごった返す食堂の入口で、スイは立ち竦んでいた。

 ロイドが部屋まで食事を運ぶ回数を減らそうと、今日は勇気を出してここへやって来たのだ。


 ロイドに与えられた硬貨を握り締めた手に、薄らと汗が滲む。

 硬貨そのものは、村でも見たことがある。新人種との交易時に使用すると教わった。胴や銀などでできた円型の薄い板は、大きさや素材で価値が変わるとは言うものの、実際に使ったことは当然ない。


(今日の主菜は、豚肉、と……炒め? 何だろう……)


 食堂の入口には、日によって替わる三種の主菜が書かれた紙が張り出されている。

 初めての買い物に万全の状態で挑むため、注文するものを予め決めておきたかったのだが、分からない単語にスイは苦戦していた。


「あれ? スイじゃない。どうしたの?」


 背後からの呼びかけに振り返ると、そこにはユールが立っていた。


「……ユール!」


 知った顔を見つけて、スイの顔が安堵に緩む。救いを求めるように、ユールのそばへ足早に駆け寄った。


「あの、これなんて読むの? 豚肉と……」

「ああ、今日の献立か。餡かけの蒸し豚と、ジワロと卵の炒め、それからスグアだね。ジワロは南の湖で獲れる魚だよ。淡泊だけど凄く栄養がある。スグアは牛肉の出汁を練り込んだ麺で、このあたりの郷土料理の一つ。どれも美味しいよ」

「魚、麺……ありがとう! その、ユールと一緒に食べてもいい?」

「勿論」


 やはり一人は心もとなくスイが頼むと、ユールは快諾してくれた。


「ス、スグアを、ください」


 スイが緊張に震える声を張り上げると、厨房で鍋を振るう快活そうな女性が「はいよ!」と返した。

 見事な手さばきで、いくらも待たずにスグアが出てくる。汁に浸した麺の上に、火を通した挽肉と葉物野菜が乗っており、いい香りが湯気にのって鼻腔をくすぐった。


 支払いを求められ、持っていた硬貨を全て渡した。買い物を終えられた安心での場を離れようとして、「お釣り!」と呼び止められてしまい、スイは大慌てでそれを受け取った。


「……おいしい!」


 ユールとともに手近な席につき、食事にありついたスイは感嘆の声をあげた。

 旨味の詰まった柔らかな麺が、さっぱりとした野菜とよく合う。スイは一口でスグアが好物になった。


 ユールが頼んだのはジワロだ。スイとは異なり、ユールの皿には副菜もたくさん盛られている。他の団員たちと比べれば細身であるのに、ユールもよく食べる。この量がユールの体のどこに入っていくのか、スイには謎だった。


「そういえば、キリヤは?」

「今日は買い出しに連れまわされて街中にいるみたい。最年少の見習いだから、みんな使いやすいんだよね」


 愉快そうなユールを見るに、きっとキリヤは雑用の中でも可愛がられているのだろう。イーサンたちとのやりとりを思い出し、スイの口角も思わず上がった。


 ユールのお喋りは、聞いているだけで楽しい。昨日まで就いていた護衛任務の話、依頼主の商人がいけ好かなかったという愚痴、キリヤの寝言の苦情が自分にくるという文句。

 スイの反応に合わせて次々に繰り出される他愛もない話題に、スイは笑いっぱなしだった。良い気分は食欲を進ませ、スイはするするとスグアを完食した。


「僕はもう行くけど、スイはどうするの?」


 ユールはこの後、市街地の警邏当番に向かう。首から下げた時計を胸元から引っ張り出し、スイは時刻を確認した。

 門限の一刻にまだ半分も達していなかったが、ユールのいない食堂で過ごすのは手持無沙汰で座に堪えない。食堂に行くとしかロイドには申告していないので、他の場所をふらつくわけにもいかない。


「……僕も、部屋に戻ろうかな」


 空になった器と盆は、厨房横の所定の棚へ戻す決まりだ。スイとユールは食器を片づけるため席を立った。

 これから食事の団員も多く、棚までの少しの距離も行き交う団員たちで混雑していた。何とか人の合間を縫ったつもりだったが、スイの肩にドンと何かが強くぶつかった。


「あっ……!」


 反動で盆が手から滑り、ガラガラと派手な音を立てて床へ落ちる。

 その場の注目が一斉にそこへ注がれ、一瞬静まり返る。


「……おおっと、申し訳ございませんね。見えてなかった」


 落とした器を拾おうとしゃがんだスイのつむじに、冷笑が浴びせられた。

 恐る恐る見上げると、三人の男がこちらを睥睨していた。


「うちの飯は貴族様の口に合うかな? 不味けりゃ吐き出すお手伝いでもしてやろうか」


 茶褐色の髪を後ろへ撫でつけた男が一歩前に出て、フンと鼻を鳴らした。スイの肩にぶつかったのは彼らしい。ユールと年齢はそう変わらないように見える。三白眼に見下ろされ、スイの背をぞくりと寒気が這う。


「……ヴィルヘルム!」


 ユールが声を張り上げた。


「ぶつかっておいてその言い草はなんだ!」


 床に膝をついたまま言葉をなくしているスイに、ユールが駆け寄る。


「だから謝っただろう。それとも、頭を床に擦りつけないとご満足いただけないか?」

「君……!」


 ユールが眉を吊り上げても、ヴィルヘルムと呼ばれた男はどこ吹く風で取り巻きの二人と顔を合わせてせせら笑った。


「遊学だかなんだか知らねえが、とっととお勉強を終わらせて帰れよ。副団長の手を煩わせるな」


 そう吐き捨てると、ヴィルヘルムたちは冷たい一瞥を残し食堂の奥へ消えて行った。

 しんとしていた周囲が、徐々に元のざわめきを取り戻す。


「スイ、大丈夫だった?」


 ユールが心配そうに呼びかけるが、たった今の出来事に理解が追いついていないスイは呆然とするしかなかった。


「う、うん。ありがとう……」


 ユールはスイの代わりに、散らばった食器をかき集めてくれた。


「あいつ本当にしょうがねえ奴だな。ユールがいなきゃ俺が言ってたよ」

「ひでえ因縁だ。怪我はないか?」


 固唾を呑んで一部始終を見ていた団員たちが、口々にスイを心配する。スイは形ばかりの作り笑いを返し、ユールと共に逃げるように食堂を後にした。


 人混みから離れ、中央舎と管理舎を繋ぐ渡り廊下に出たところで、スイはようやく詰まっていた息を吐き出した。

 浮かぬ表情のスイの肩を、ユールがそっと撫でる。


「災難だったね……以前はまだましな奴だったんだけど……ただのやっかみでスイは何も悪くないから、忘れた方がいい」


 ユールが慰めようとしてくれているが、嫌に早まったスイの鼓動はまだ落ち着きそうにない。


「あの人、ロイドを煩わせるな、って言ってた……」

「ああ、まぁ……色々あったんだ。彼にも」

「色々?」

「うーん。あんまり噂話は良くないんだけど、こうなったらスイは知っておいてもいいかもね……」


 躊躇いながら、ユールは続けた。


「彼は、副団長のことが好きだったんだ」


 スイはぽかんと口をあけた。


「僕も、ロイドのこと好きだよ」

「え?」

「ユールもキリヤも、好きでしょ?」


 ティダモニアの団員は、皆がロイドを慕っている。この短い期間でも、ロイドのそばにいればスイにもすぐに分かった。


「ええと……そうだなあ」


 ユールは唸った。


「勿論、僕も副団長のことは尊敬してる。でもそうじゃなくて……ヴィルのは恋だったんだ」

「こい?」

「む、難しいな。もっと知りたいとか、会いたいとか、ずっと一緒にいたいとか、何でもない時に顔が浮かぶとか……他の人とは違う、そういった特別な気持ちかな?」


 スイの好きな人は沢山居る。アルマやメイア、地底の村人たち。キオ、ユール、キリヤ。みんな好きだ。勿論ロイドも。

 その中に、他とは違う特別な誰かは居るだろうか。 


「まぁ、とにかく……紆余曲折あって、ヴィルヘルムの恋は結局破れたんだって。詳しいことは僕も知らないんだけど、もしかすると彼はまだ副団長のことが好きで、そばにいるスイがちょっと気にくわないのかもね」


 本当に気にしないで、とユールは再度スイを励ました。ユールの説明を聞いても、ヴィルヘルムが絡んできた理由はピンとこなかった。


「気分の悪い話は終わり! ね、スイ。もうすぐ年が明けるけど、家には帰るの?」


 沈んだ空気を振り払うように、ユールが強引に話題を変えた。


「僕は運よく年の末と明けの当番から外れたから、休暇を数日もらえたんだ。キリヤと帰ることになってて……と言っても、家はクリダラにあるからすぐそこだけどね」


 年が明ける、とは暦が一周することを指す。地底で用いていた暦は地上と同じだったので、スイは日や月を数えるのに苦労せずに済んだ。


 もう十日と経たず、暦上の一年が終わる。

 村では年が明けた時にささやかながら肉が振るまわれる習慣があったが、地上では各々の家庭で過ごすのが一般的らしい。


「僕は……多分帰らない、かな」


 スイは言葉を濁らせた。スイに帰る家はない。


「じゃあここにいるんだね。それならさ、新年の三日目に、街の大通りでお祭りがあるんだ。国内でも指折り数えるくらい規模が大きいんだよ。キリヤと行くんだけど、スイも行かない?」

「おまつり?」

「皆で新しい一年の安泰を願うんだ。露店が出て、珍しい食べ物もたくさんあるし、たくさんの商店が大安売りしてる。芸者の催し物も多くて、通りを歩いてるだけでも退屈しないよ。色んなところから旅人が来て賑わうんだ」


 露店、商店、芸者……スイには全く光景が浮かばない。けれど、ユールの輝く表情を見ているだけで、不思議と胸が踊るようだった。

 やはり外の世界には美しいものも面白いものも、想像を超えるほど沢山あるのだ。


「あ、勿論スイが良くて、副団長に許可がもらえればでいいんだけど」

「ううん、行きたい……! ロイドに聞いてみる」

「良かった。一緒に行けるといいね」


 ヴィルヘルムのことで憂鬱になっていたスイの気持ちは、おかげですっかり晴れていた。

 ロイドも一緒に行ってくれるだろうか、とスイは思った。

 おまつり、はユールとキリヤが一緒ならば間違いなく楽しいに違いない。もしそこにロイドも加われば、きっともっと、そうに違いない確信があった。

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