29. 恋 1

「ロイドは家に帰るの?」


 今日は朝食を食べに行きたいとスイが申告すると、ついでに書架を案内するとロイドが言ったので、二人で共に食堂へ入った。


 いつの日か、ロイドは滅多に食堂に現れないとユールが言っていた。

 団員たちが物珍しそうに見るのは、スイではなくロイドの方かもしれない。そう思えば、スイは以前よりも気を楽にしていられた。


 昨昼の外出ではスグアが美味しかったこと、ユールが一緒だったことだけをロイドに報告した。

 ヴィルヘルムについては、つい伏せてしまった。ロイドの面倒を増やすと分かっていたからだ。

 忘れたことにして、もう彼に近寄らなければ済むとスイは己に言い聞かせた。

 ヴィルヘルムはロイドに特別な感情を抱いていた。言えばロイドはきっと、ヴィルヘルムを気にかける。スイは、何となくそれが嫌だった。


 ヴィルヘルムで悩むのを一旦止め、スイは気持ちを前向きにロイドに切り出した。ユールの言っていた、新年の祭について。


「ユールは、新年は家に帰るって言ってた。ロイドは?」

「いいや。俺はここで過ごす」

「じゃあ、違う時に帰るの?」

「戻らん」


 ロイドの必要最低限の物言いはいつも通りなのだけれど、あまりに端的に言い切られ、そうなんだ、とスイは気の抜けた相槌を打った。


(ロイドの家って、どこにあるんだろう)


 よく考えればスイはロイドについて、歳が32であること、名前、ティダモニアの副団長という身分以外の情報を持っていない。

 生まれ育ち、好きなもの嫌いなもの、日頃何をしているのかも知らない。

 寡黙なロイドは普段から必要以上のことを口にしないし、スイも喋りが達者な方ではない。二人でいる時間はおおむね学習にあてられていたこともあって、スイはロイド自身についてあれこれと聞いたことがなかった。

 スイは、ロイドがどう生きてきたのかが気になった。信念を持てと言ってくれたロイドの人生が、知りたくなった。


(今度にしよう)


 沸々と湧き出てきたロイドへの興味を、スイは頭の奥の方へ押し込む。今の本題は祭だ。


「年が明けて三日目に、街でお祭りがあるんだって。ユールが行こうって言ってくれたんだけど……キリヤも連れて。行ってもいい? ロイドも、できれば一緒に」


 一緒にと加えた理由は、ロイドにも居てほしいから、というだけではない。

 スイはやっと一人で部屋を出ることを許された身だ。街へ出るとなればロイドの同伴は必須であろうと分かっていた。


「ああ、新年祭か」


 大胆なお願いだという自覚はある。ロイドが食事の最後の一口を咀嚼し終えるのを、スイは固唾を飲んで待った。


「調整してみよう。まだ約束はできないが」

「あ……ありがとう!」


 ロイドの頷きに、スイはぱあっと破顔した。ユールとキリヤ、そしてロイドと一緒に祭に行けるかもしれない。

 どれほど充実した時間になるか、考えるだけでスイは更に嬉しくなって、いっぱいになった胸に朝食を押し込んだ。


 食事を終えた後、スイとロイドは同じ中央舎にある書架へ向かった。

 己の望みと向き合え、とロイドは言った。そのために知識をつけるのは非常に有効な手段であり、本は大いに役立つのだという。

 先ほどまで騒がしい食堂にいたせいか、書架の静けさは随分と身に染みる。窓には帳が引かれ室内は薄暗い。埃の匂いを鼻の奥で感じた。


「誰もいない……?」

「文人気質の者は少ないからな。事務的な業務で必要でなければ、ここへ寄る者はそういない」


 食堂の半分程度の空間に、背の高い本棚がずらりと並ぶ。

 本棚にはティダモニアの記録や一般的な歴史書、地理や科学分野の専門書、武術の指南書などが詰まっていた。

 書架の一角には「機密室」と札のついた小部屋があり、過去の依頼履歴など外部漏洩禁止の書物が収められている。


 スイは「寄贈書」と書かれた本棚の前に連れていかれた。ここには市民から寄贈された小説や伝記、参考書などが並べられているという。

 このクリダラ拠点では年に二度、地域貢献運動の一環として古本市が開かれる。これらの寄贈品は売り物で、利益は福祉活動にあてられる。イーサンの絵本も、スイに贈られなければこの棚の一部になっていた。


「専門性の高いものはまだ読み辛いだろうが……このあたりには絵付きの図鑑もある。後で辞書の引き方を教える。それで不明な言葉を調べろ。興味のある本は、持ち出して構わない」

「何冊でもいいの?」

「ここにあるのは、あくまで市民の物だ。承知の上で大切に扱えるならば何冊でもいい。気に入れば俺が買い取ろう。新しい本が欲しいと言っていただろう」

「……ありがとう」


 スイは頬がじわりと温まるのを感じた。

 貨幣とは、往々にしてそれなりの労力と引き替えだとスイも知っている。ロイドが手間かけて手に入れたそれを、スイのために消費しても良いと考えてくれていることがたまらなく嬉しかった。

 今のスイは、自力で金銭を得る方法を知らない。いつか自分の貨幣を手にできた時は、ロイドに何か返したいとスイは思った。


「時間まで好きに探していい。持ち出した本は後から報告しろ」


 そう言って、ロイドは「仕事がある」と書架にスイを残して行った。

 ロイドの背中を見送り、スイは寄贈品の本棚と向き合う。一冊を手に取り適当にめくる。

 めくればめくるほど、目に飛び込んでくる膨大な情報たち。見ただけですぐに分かる単語もあれば、一字ずつ丁寧に追いかけないと読み取れない単語もある。

 選ぶにも、どの本に空についての記述があるのか見分けがつかない。方々から随時集まってくる書物なだけあり、整理がされておらず分類や大きさもばらばらだ。


「あ、これ……」


 本棚の端から順番に取り出していると、スイの目にある一冊が留まる。


「『にじのふもと』? にじって何だろう」


 それは絵本だった。今スイの部屋にある本は絵と単語が書いてあるだけの学習用だが、これは物語のようだ。

 表紙には、蒼天を見上げる少年少女、そして弧を描いて空を横切る七色の帯が描かれている。

 作中の絵には、空がよく登場する。七色の帯は、決まって青空を背景にしていた。


(すごく綺麗……こんなの本当にあるのかな?)


 スイはひとまず、『虹のふもと』を持ち出す一冊に決めた。

 他に目ぼしいものがないかと次を取り出そうとした時、後方から書架の扉が開く音がした。

 どきりとして入口の方を向くと、そこにはヴィルヘルムがいた。スイの腹の底が急速に冷える。


「貴族様がこんな黴臭いところへ、何のご用かな」

「……あ、」

「ここにはお上品な教養本の一つもなくて退屈だろう」


 卑しい嘲笑を浮かべたヴィルヘルムが、ずかずかと荒い足取りでスイに歩み寄る。

 逃げ出す間もなく目の前まで距離を詰められたスイは、背面を本棚にぶつけ行き場を無くした。間近でヴィルヘルムに睥睨され、息を殺して立ち竦む。


「副団長の手を煩わせるなと言っただろう? あれは親切な助言じゃないんだがな、お坊ちゃん」


 ねっとりと細められた彼の瞳は、明らかな嫌悪感で塗り潰されていた。


「副団長はお忙しいんだ。非常にな。食堂では随分と楽しそうだったじゃねえか。俺の警告を忘れた、馬鹿みてえな呑気な面で。おまけに……へえ、絵本探しまで手伝ってもらったのか?」


 ヴィルヘルムは、スイが脇によけていた『虹のふもと』を横目に鼻を鳴らした。


「副団長の私室にまで住まわせてもらって、ご大層なことで。お前の保護者がどれほどのもん知らねえが、貴族の権力にも限界があると、学ぶ機会が欲しいか? 仕方なくもう一度言ってやる。副団長の周りをちょろちょろするな。親元に泣きついて、帰らせてくれって頼むんだな。俺もあんまり気が長い方じゃないんでね。年が明ける前に、消えろ」


 ヴィルヘルムが徐々に背を丸め、スイに顔を近づける。そして耳元で、低く、静かにがなった。

 声もなく蒼白になったスイに満足したのか、それともつまらないと感じたのか。ヴィルヘルムは来た時と同じように、乱暴な足音を鳴らして書架を出ていった。


 ぴんと張り詰めた空気の中、スイは一人本棚に背をもたれながらずるずると腰を抜かした。

 忘れていた呼吸を思い出し、はっ、はっ、と短く空気を吐く。


 これが、人の悪意。正面から受ければこうも根こそぎ気力を奪われるのだと、今知った。

 ユールの言った通り、彼はスイがロイドの近くにいるから目障りなのだ。それだけのことで、人はこれほど人を憎悪する。


(こい、をしたから……?)


 ユールは恋を、誰かを特別に想う、良い類のように言った。けれど、ヴィルヘルムのあの形相は、どうしても素敵なことと結びつかない。

 恋がヴィルヘルムをああさせるのならば、恋はひょっとすると恐ろしいものなのではないか。スイはそんな予感がした。

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