30. 恋 2

 ヴィルヘルムに詰め寄られたスイはそれ以上本を探す余力もなく、『虹のふもと』一冊を抱えてのろのろと書架を出た。

 自分の部屋へ辿り着くと、スイは勢いよく寝台に倒れこんだ。楽しい祭りの話も、本探しのわくわくも吹き飛んでしまった。

 持ち帰った『虹のふもと』を開く気にもなれず、スイはぐったりと天井を仰いだ。


 ロイドが執務室にいなくて良かった。書架で起きたことをどう報告したら良いのか、スイには見当もつかない。

 昨日はたまたま、虫の居所の悪いヴィルヘルムに目をつけられただけ。そんな言い訳はもうできない。ヴィルヘルムは明確に、スイに狙いを定めている。彼の中のロイドへの「特別な気持ち」は、まだ終わっていないのだ。


 その日、部屋まで昼食を持ってきたのはロイドではなくキオだった。ヴィルヘルムのことを言うべきか黙っているべきか、まだ決めきれていなかったスイは内心でほっとした。


「ロイドは所用で外しててね。僕が頼まれたんだ。本当はお喋りでもしたいところだけど、スイと二人になるなってロイドがうるさくてさ。お皿は後でロイドが回収してくれるから、のんびり食べて」

「あ……ま、待って!」


 すぐに出ていこうとするキオを、スイは思わず呼び止めた。


「どうしたの?」


 普段大人しいスイの大きな声に、キオが意外そうに足を止める。


「あ、その……聞いてもいい?」


 ヴィルヘルムについて率直な意見が聞きたかったけれど、スイは逡巡し、直接的な言及は避けることにした。


「……キオは恋って、どう思う?」

「どうして?」

「そういうのがあるって……聞いたから」

「ああ、小説でも読んだのかな」


 スイの質問を純粋な好奇心と解釈したキオは、渋い顔をする。


「僕は興味ないかな。そんな気力と時間があったら、研究につぎ込みたいから。面倒も多いし」

「そうなの?」

「恋愛における人付き合いって、あまりにも無駄が多いと思ってしまうよ。僕はいつでも自分を優先したいからね。他人に感情を振り回されるなんて御免だよ。参考にならないから、他の人に聞いた方がいいかも」


 ありがとう、とスイが虚ろに礼を返すと、キオは今度こそ医務室へ戻っていった。


(恋は、面倒?)


 ユールは恋について悪く言わなかったが、キオは否定的だ。そしてキオ曰く、恋とは面倒なもの。それなのに、ヴィルヘルムはロイドに恋をした。

 スイはますます、恋が分からなくなった。




「報告することがあるだろう」


 夕食は、普段通りロイドが運んできた。

 昼から今まで、スイはずっとヴィルヘルムについて考えていたが結局良い案は浮かばなかった。

 何を話せばいいか、往生際悪くぐるぐると頭を悩ませながら食事をしていたスイに対し、ロイドが先に切り込んだ。


「あ、えっと……本、上手く探せなくて、一冊だけ。『虹のふもと』って名前……まだ読んでないんだけど、虹って本当にあるの?」


 スイは一度匙を置き、本をロイドに見せた。出来得る限り自然な声色になるよう努めたのに、ロイドは一切表情を動かさずスイを正視するだけだった。


「始めに言ったはずだ。お前の行動は筒抜けだと」


 今のスイのみぞおちあたりが、きゅうと縮む。


「昨日はいつ言い出すのか様子を見ていたが、今日も黙っているつもりか」

「……ごめんなさい」


 叱責を覚悟した子供の如く、スイは肩を落とす。

 ロイドは、とっくにヴィルヘルムのことを知っていたのだ。昨日の昼に食堂で口汚く毒付かれたことも、今朝書架で恫喝されたことも。そして、スイが意図的に隠したことも。

 逃げられないと、スイは観念した。


「……その、ヴィルヘルムって人が、僕のことあんまり好きじゃない、みたい」

「何を言われた」


 きっと耳に入っているだろうに、ロイドは改めてスイの口から言わせようとしている。誤魔化しは許されない。酷な試練に、スイは奥歯を噛んだ。


「ロイドの邪魔をせずに早く帰れ、って……」


 スイの声が徐々にしぼむ。本当は、ロイドに聞かせたくなかった。

 ロイドの負担を減らす目的で一人外出が始まったのに、早速問題を起こした。これでは本末転倒だ。


「……お前を貴族という身分にしたのは、地位を盾に団員たちの節度を保持する狙いもあったが……ヴィルヘルムに対しては逆効果だったようだ」

「……どういうこと?」


 いつになく重い語気に、スイは恐々とロイドを伺う。


「奴の叔父はこの国の内務大臣だ。平民の出でありながら、生え抜きで重役まで昇りつめた。その生い立ちからか、生粋の反血統主義者としても名が知れている。ヴィルヘルムも叔父の影響を受け、上流階級を軽蔑しているきらいがある。大臣の権力を後ろ盾に、奴は近頃問題ごとが多かった。遠からず対処はする予定だったが、手配を急ぐよう調整した。片付くまでもう少しかかるが、しばらく気を緩めるな」


 昨日の今日で、ロイドは既に対応を進めたようだ。行動の迅速さに、スイは驚くしかない。


「……ヴィルヘルムは、ロイドに恋してた、って」


 ロイドによると、ヴィルヘルムはスイの貴族という仮の出生に反感を抱いていることになる。

 けれどきっと、彼はスイが貴族でなくとも同じことをしただろう。そして、スイが貴族であっても、ロイドにつき纏っていなければ視界にすら入れなかったかもしれない。


「ユールにでも聞いたのか」

「……うん」


 ロイドが浅くため息を吐いた。


「半年ほど前だ。好意を告白された。色ごとをしている暇はない、と拒否した。奴は聞き分けよく引いたが、以降取り巻きを引き連れ始め、周囲への悪態が増えた。任務も最低限はこなすが粗が目立つ。官僚の縁戚を左遷したなどと事を荒立てないため、慎重に余所へ異動させる手続きを進めていたが……不快な思いをさせた。俺の監督不足だ。すまなかった」


 思いがけず謝罪され、スイは慌てて首を振る。


「い、いいよ、ロイドは悪くない……じゃあ、その……あの人は恋が通じなかったから、変わっちゃったの? 恋って、伝えるものなの?」


 スイは、ヴィルヘルムがロイドに告白した理由が分からなかった。一人でその気持ちをただ持っているだけでは、駄目だったのだろうか。


「伝えずにはいられなくなる場合は多い。想いが募ると、相手にも同じだけ想って欲しいと欲が出てくる。だから、自分はこれだけ好意を持っているのだと意思表示をする」


 スイは地底での生活を思い返した。家族のことが好きだった。村人たちが好きだった。そして彼らも、スイと同じようにスイを愛していた。改まって伝えたことはないし、好きになってくれと頼んだこともない。

 しかし恋は、そうではないらしい。同じだけの愛を、互いが持てるとは限らない。


「ロイドは、嫌だった? 恋をされて……」


 ロイドはヴィルヘルムへ好意を返さなかった。好意それ自体は、良いものなのに。


「親愛や敬愛ならまだしも、恋愛ごとは到底視野に入らん」

「どうして? 親愛とか敬愛と、何が違うの?」

「一般的に恋愛とは、特定の他者に抱く愛情だ。家族や友人とは違う。替えが効かないが故に、特別な何かを望む。愛情の均衡にずれが生じれば、その歪みはどちらか、或いは両者の負担となる。俺は面倒ごとを増やす気はない」


 恋は面倒。ロイドはキオと同じ意見だ。しかしスイの背中は衝撃に粟立った。


「この話は終わりだ。ともかく、あったことは包み隠さず知らせろ。黙っていようとすぐに分かる」


 スイは気もそぞろに頷いた。

 夕食を飲み込んだ後、ロイドは辞書の使い方を教えてくれたがその間も、スイは上の空だった。


(相手にも、同じように恋して欲しいと思うのが恋?)


 ロイドには、恋をしている暇はない。

 つまりヴィルヘルムに好意を持てないという話ではなく、恋そのものをする気がないのだ。

 誰か一人を特別に愛することはない。ロイドがそう言い切ったことが、なぜだか無性に寂しかった。



 ◆



 あれから数日、スイは平和な時間を過ごせていた。食堂や書架へ行ったり、時には散策をしてみたり。

 スイが一人でうろついている光景も徐々に馴染み、気軽に話しかけてくる団員も増えた。スイも少しずつこのティダモニア、そして新人種に慣れ始めていた。


 ヴィルヘルムはあれ以降、近づいてくることはなかった。偶然鉢合わせた時には凄まじい形相で睨みつけてくるけれど、あちらから近寄ってくることはなくなった。ロイドが「手配」した影響の一つかもしれない。


 年の暮れが近づくにつれ、敷地内の喧噪が日に日に小さくなる。勤務当番者を除き、休暇で帰省する者が増えるからだ。

 スイは宿舎の入口で、ユールが任務から戻るのをキリヤと共に待っていた。今夜家に帰るという二人の見送りをするためだ。


「キリヤは、恋ってしたことある?」


 雑談の途中、スイはキリヤに聞いた。


「な、え、どうしたんだよ、お前」


 あまりに突拍子がなかったらしい、キリヤは顔を赤らめたり青ざめたり忙しそうだ。何を誤魔化しているのか、何度かわざとらしく咳込む。


「俺は……んな難しいもん、まだよく分かんねえ」


 もごもごと、きまり悪そうにキリヤが言う。


「……スイはしたことあんのか?」

「うーん……」


 スイはぼんやりとあさっての方を見上げた。恋について、ここ最近ずっと悩んでいる。どれだけ考えても、スイも分からないことだらけだ。


「僕もよく知らなくて……ただ、ある人が恋をして苦しんでるように見えて、そんなに辛いのに何で恋をするんだろうって」


 ヴィルヘルムのロイドへの好意はどのような過程を経てか、スイへの憎しみという真逆の感情に変換された。

 苦しくないのだろうか、とスイは単純に疑問を抱いた。消化されない愛情と憎悪を、心の同じ場所に抱えている状態は想像しただけで疲れそうだった。


「まあ……やめようと思ってもやめられるものじゃねえんだろ」


 キリヤがぽつりと言う。


「自分でもどうにもならないけど、そう簡単に終わりにできないくらい、でも苦しくても構わないってほど、好きってことなんだろ。その、こ、恋ってやつは。もういいだろ、この話」


 話しているうちに恥ずかしくなったのか、キリヤは赤面のままこの話を打ち切った。


(苦しくてもいいから好き……?)


 そのうちユールが戻ってきたため、スイは正門前まで二人を見送り、また新年祭で、と一時の別れを告げた。

 二人がいなくなったティダモニアの敷地は、なんだか特別静かに感じた。

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