31. 虹
「起きろ」
その日、スイはロイドに体を揺すられて目が覚めた。
囁くような呼びかけに、水の底から浮き上がる心地で覚醒する。
「ん、ん……あれ……」
まだ目の奥が重い。薄く開いた目でロイドの姿を視認するも、スイは未だぼうっと夢と現との境目を行き来していた。
「出かけるぞ」
スイは枕元の時計をのろのろと手繰り寄せた。平時の起床にしては早く、時刻はやっと日が昇り始める頃だ。
「出かけるって、どこへ……?」
「敷地の外だ」
「そ、外?」
「ああ。冷え込む時間だ。しっかり上着を着ろ」
そう言って、ロイドは壁にかかっているスイのマントを放ってよこした。見ればロイドは既に外出の装いを整えている。
突然の状況を飲み込めないまま、スイは急いで寝衣を着替えマントを羽織った。
ロイドの後をついて外へ出ると、時間が早いためか、拠点の中は静寂で満ちていた。東の空が橙に染まり明るくなり始めている。まだ日の光は強くないが、スイは念のためフードを深く被った。
不思議なことに、外は辺り一帯が濡れていた。おかげで訓練場を横切る時、スイは水たまりを踏みかけた。
「昨晩は珍しく雨が降った。足元に気をつけろ」
「雨?」
窓のないスイの部屋からは、空の変化を伺えない。スイがまだ見たことのない、水が天から降り注ぐという雨。見逃したのが、少し悔しい。
スイを連れて来られたのは厩舎だった。ロイドは青毛の馬を馬房から連れ出し、手綱や鞍などの馬具を手際よく装着していく。馬はよほど慣れているのか、頭を下げ鼻先をロイドの胸元に擦りつけている。
「乗れ」
「えっ?」
少し離れたところで固唾をのんで待っていたスイは、ロイドの言葉に間抜けな声をあげた。
「大人しい馬だ。暴れはしない」
馬はロイドにこめかみを撫でられ、気持ちよさそうに目を閉じる。
まだ馬は怖い。けれど、ロイドが待っている。スイはぎゅうとマントの裾を握り、馬の機嫌が良さそうなうちにと覚悟を決めた。できるだけ馬の視界に入らぬよう、大回りで近づく。
「その
ロイドが馬の胴にぶら下がる、半円型の鉄輪を指した。
スイは何度も躊躇いながら、そっと馬に触れた。短い毛並みに沿って撫でればさらさらと触り心地が良く、温かかった。
ロイド指導の元、スイは馬に乗り上げた。岩壁ではなく生き物に登る勝手が分からず、二、三度姿勢を崩したが、無事に鞍の上へ腰を下ろすことができた。
「すごい……」
一気に視線が高くなる。おかげで、来たことのある厩舎も新鮮な場所に思えた。
顔が見えないおかげか、馬への怖さがいくらか和らぐ。目の前のたてがみを控え目に指先で梳くと、ブルルと馬が鼻を鳴らした。
続けてロイドが乗馬する。必然的に、スイの背面にぴたりとロイドが密着した。
「口を閉じていろ。揺れに慣れないうちは舌を噛むぞ」
「え? ……えっ、わっ!」
スイの心の準備が整うより先に、ロイドが馬の腹を蹴った。すぐに馬が進み出す。スイは手で口元を抑え、悲鳴をなんとか飲み込んだ。
厩舎を出たところで、馬は
馬の脚は、確かに人の歩みよりもうんと速かった。あっという間に拠点の正門を通り過ぎる。
スイは口を閉じたまま、初めての敷地の外を逸る気持ちでまんじりと眺めた。
小高い丘の上にあるこの拠点は、門を出ると街へ下りる煉瓦道が続く。ロイドは逆を向き、更に上へと馬を向かわせた。
冷えて湿った空気、鳥の囀り、風にざわめく木々、馬の蹄の音、温められた背中。
脅威など何もない、真綿で包まれたような柔らかな心地。まるで、この世界には自分とロイドしかいないような錯覚さえ抱く。鼓動が速くなっていく。
目的地へ到着した馬が、脚を止める。先にさっと下馬したロイドの手を借り、スイもたどたどしく馬から降りた。
開けた頂上からは、下の景色が一望できる。
「太陽を背に、街の方を見てみろ」
そう言ってロイドはスイの後ろに立ち、西の方を指した。
丘の斜面を埋める林の木々が、麓でぱたりと消える。そこから先は、色や大きさもさまざまな四角形や三角形がひしめき合っている。それらは小さく潰れて見えなくなるまで、うんと遠くへ続いていた。朝日に白く照らされた、クリダラの街だった。
「あ……」
スイは息を呑んだ。
いくつもの色を流した帯が、真っ青な空に浮いている。ゆるやかな弧を描き、街の上へ落ちていく。
「虹だ……」
夢のような美しさは、綺麗の一言では到底収まらないほど壮観だった。
熱く胸に迫る高揚が、体を突き破っていきそうだった。見事な彩りが、ため息が出るほど青空によく映える。
細かに身震いするスイの頬を、いつの間にか一筋の涙がつたった。
「雨の降らないクリダラでは、虹が現れることはなかなかない。今のうちに見ておけ」
スイの涙を、ロイドがそっと指先で拭い取った。涙の痕を朝風が撫で、肌の表面を冷やしていく。
「本当に、あったんだ……」
書架から持ち出した、『虹のふもと』という絵本。まだ全てを読めてはいないけれど、神様が通るという七色の道。
神とはこの世を作った全知全能の人ならざるものであり、その概念を信じる者もいれば信じない者もいる、とスイはロイドに教わった。
超常の存在そのものが、スイにはぴんとこなかった。しかし確かに、人の手では到底作り出せないであろうこの絶景は、神のような不可知の仕業であると思いたくもなる。神秘的、という言葉の意味を、スイは理解できた気がした。
「誰かのお願いごとが、叶ったのかな」
虹のふもとには、誰かの願った物が置いてある。絵本にはそう書いてあった。
「幸運の証だと言う者もいれば、災いの前兆だと言う者もいる。お前の信じたいものを信じろ」
「ロイドはどう思う?」
「聞かん方がいい。夢は見られるうちに見ておけ」
「なあに、それ」
スイは笑った。
虹が見られて良かった。しかしそれ以上に、虹を見せようと、ロイドが思ってくれたことが嬉しかった。ロイドとこの時間を共有できたことが、たまらなく楽しかった。
地上ではきっと、こんな瞬間が幾度も訪れる。そんな時、隣にロイドがいてくれたらと願ってしまう。
(ロイドも、楽しいのかな?)
そうであればどんなに幸せかと、スイは思った。
「あ……なくなっちゃう……」
会話している間に、虹の輪郭があやふやになり始めた。下の方から、すうっとゆっくり消えていく。あまりにじっくりと薄くなっていくので、完全に消滅したであろう後も、まだ微かながら虹の影が残っているように見える。
「陽射しが強くなる。そろそろ戻るぞ」
虹は消え、スイはまたティダモニアの敷地へ帰る。
至福の時間は終わった。ふわふわとした、都合の良い幻を見ているようだった。
「……ありがとう、ロイド」
夢だったら嫌で、スイはロイドの上着の裾をそっとつまんだ。指先で、生地の固い感触を確かめる。ロイドはここにいると、幻ではないと実感を得られてスイは安堵した。
「構わん」
ロイドは短く返しただけだったが、その口角はほんの僅かに上がっていた。
柔らかく細められた碧眼に、スイの姿が映る。泣きたくなるほど胸がいっぱいになって、スイはたまらずはにかんだ。
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