32. 発狂

 部屋に戻った後もスイは興奮しっぱなしで、朝食中は虹が想像以上に美しかったと何度もロイドに語った。

 感動を的確に表せない歯がゆさの中でも、同じことを一生懸命繰り返すスイの話を、ロイドは嫌な顔一つせず聞いてくれた。


 ロイドは一つ助言をした。虹についてもっと知りたければ、天候や太陽について調べると良いと。手間をかけて自ら取りに行った知識は、必ず財産になると。

 これまでスイは、分からないことはロイドやキオに教えてもらってばかりだった。聞ける誰かに会うまで、疑問は疑問のまま置いておくしかなかった。

 もし、自分で解決する能力があれば。知識が未知の恐れを吹き飛ばしてくれると、スイはもう知っている。自力で恐怖を克服できたら、どれだけ頼もしいだろう。実現すれば、自信を持てるかもしれない。


 勇気をもらったスイは、夕刻に再び書架を訪れていた。

 帰省者の増えたティダモニアの敷地内はすっかり静かで、姿を変えたようでどこか物寂しい。


「あっ、『日光……と植物』? ……これはちょっと違うかな」


 寄贈本の棚の前でしゃがみ、スイは何冊も本を引っ張り出しながら唸っていた。

 絵が載っていないと、一見ではその中身が分かりづらい。ひとまず表紙から推測するしかないのだが、装飾の施された飾り文字に慣れておらず、表題を読み上げるだけでも苦労する。


 本を探すスイの後ろで、静かに書架の扉が開いた。夢中になっていたスイは、背後から忍び寄る者たちに気付けなかった。

 突如、横っ面に強い衝撃が走る。


「……――っア!」


 華奢な体が、勢いをつけて横にくずおれた。手に持っていた本が音を立てて落ちる。


「おいおい、これから大切なお喋りなんだ。口はきける程度に抑えとけよ」

「いや、あんまりに隙だらけで加減がな」


 頭が痺れ、目の前が霞んだ。耳の中がびりびりと震え、痛みが追いつかない。

 床に這いつくばりながらスイが瞼を上げると、ヴィルヘルムとその取り巻きの二人が、嘲笑いながらスイを見下ろしていた。

 スイは彼らにこめかみを蹴り払われ、薙ぎ倒されたのだ。


「この年の瀬に勤務当番なんざ、とんだ外れ籤だと思っていたが……せっかくの機会だ。お坊ちゃん、ちょっとばかり話をしようか」


 ヴィルヘルムは床に膝をつくと、スイの前髪を鷲掴んで持ち上げた。


「う……!」

「せっかく忠告してやったのになあ。おつむがよろしくないようだ。……連れて行け」


 ヴィルヘルムがスイの額を床に叩きつける。衝撃が背骨の先まで一気に走った。焦点が激しくぶれ、突然のことに錯乱した手足は麻痺したように動かない。

 ヴィルヘルムが顎で指図をすると、取り巻きの一人がこれみよがしに鍵を取り出した。書架の一角にある機密室の扉の施錠を開く。

 もう一人が、スイを両脇から持ち上げその体を引きずった。


「ぃ、や……!」


 スイは萎えた膝で必死に身をよじったが、日々鍛えている男が相手ではまともな抵抗にならなかった。

 あっという間に機密室へ連れ込まれる。雑に投げ出された軽い体が本棚に直撃し、スイは声にならない悲鳴をあげる。

 狭い小部屋で、彼らに囲まれた。スイの首の後ろで、けたたましい警鐘が鳴り続ける。


「しかし、こいつ一応貴族なんだろ? こんなことして後で始末されるなんてことねえよな、ヴィル」

「問題ない。まず姓を隠してここに放り込まれてる時点で、身元なんぞたかが知れてる。名乗るのも恥ずかしいほどの下級貴族か、権力で守る価値もない愚息ってことだ。おまけにこんな年の末になっても、迎えすら来ねえ。こいつは厄介払いにここへ捨てられた、哀れなお坊ちゃんなんだよ。まあ、何かあっても大臣の叔父がどうとでもしてくれるさ」


 言いながら、ヴィルヘルムは倒れているスイを足蹴にしてひっくり返し、胸倉を掴み上げた。その顔にべったりと貼り付いた薄っぺらな微笑みは、鳥肌が立つほど気味が悪い。


「よお、今朝はどこへ行ったのか知らねえが、お出かけは楽しかったか? 副団長の馬の乗り心地はどうだったかな?」


 ヴィルヘルムは鼻の先同士がつくほどスイに近づき、低くがなり上げた。その瞳は大きく見開かれ、苛立ちに厚く塗れている。


「年が明ける前に消えろと言ったよな? わざわざ警告してやった礼が告げ口とは、ろくな躾がされてねえとみた。余計なことを吹き込んで副団長に厳重注意させるなんざ、随分な恩返しじゃねえか」


 ヴィルヘルムはスイの上体を大きく前後に揺すぶった。

 竦み上がって真っ白になりかける頭を、スイは懸命に奮い起こす。

 ヴィルヘルムの言葉から推察するに、ロイドが何か言ったのだ。これまでの振るまいについて。だから彼は、途中からスイに関わって来なくなった。

 それはスイがロイドに泣きついたせいだと、この男は思っている。


 スイに恥をかかされ、ロイドに失望され、憎悪は猛烈に燃えただろう。そんな中、ヴィルヘルムは見たのだ。

 今朝、虹を見に行ったところを。目障りでたまらないスイが、ロイドと二人で馬に乗っているところを。


「副団長はお忙しいと何度言えば理解する? お前みたいな遊び感覚でふらついている奴を、相手している暇はないんだよ!」


 吠えたヴィルヘルムが、スイの体を勢いよく本棚に押し付けた。ガン、と後頭部で派手な音が鳴る。


(……羨ましいんだ、僕が)


 衝撃に息すらまともに吐けない中、スイは唐突に理解した。

 始めはヴィルヘルムも、純粋にロイドを慕っていただけかもしれない。

 ロイドに告白したものの、「暇はない」と断られた。


 彼は、ロイドが多忙であって欲しいのだ。忙しいのだから仕方がない。悪いのは自分ではない。自分に価値がないからではない。

 故にロイドに、ぽっと出の貴族に割く時間などあるわけがない。普段現れない食堂へ顔を出し、書架での本探しに協力し、馬に乗せてどこかへ連れ出すなどということは、決してあってはならない。


 そうでなければ、ロイドが自身の好意に応えなかった理屈が通らない。

 ヴィルヘルムの保ちたかった自尊心は、色を変え形を変え、歪にねじれてスイにぶつけられた。


(……でも、そんなの)


 賛同できない、とスイは思った。

 ヴィルヘルムが見ているのは、合理化のために作り上げた都合の良いロイドだ。己の求める架空のロイドを追い続け、その像を歪ませるスイを拒絶している。


 ヴィルヘルムはもはや、ロイドではなく、ロイドを愛する己の方が大切なのだ。

 スイは我慢できなかった。彼がありのままのロイドを見ようとしないことが、それでいてロイドを諦めきれていないことが、無性に許せなかった。なんて自分勝手なんだ。


「僕、……が、」


 絞り出された声に、ヴィルヘルムが怪訝に片眉を上げる。


「僕、の方がずっと、ロイドを、好きだ……!」


 自身で言葉にしながら、スイは自覚した。


――もっと知りたいとか、会いたいとか、ずっと一緒にいたいとか、何でもない時に顔が浮かぶとか……他の人とは違う、そういった特別な気持ちかな?

 ユールが言った。


――他人に感情を振り回されるなんて、御免だよ

 キオが言った。


――想いが募ると、相手にも同じだけ想って欲しいと欲が出てくる

 ロイドが言った。


――苦しくても構わないってほど、好きってことなんだろ

 キリヤが言った。


 ロイドのことが、もっと知りたい。そばにいたくて、ロイドが来る時間が待ち遠しい。

 ロイドの役に立ちたくて落ち込んだ。どうしたらロイドのためになるか、うんと悩んだ。

 楽しい時に、ロイドも楽しいと嬉しい。もっともっと、同じことを一緒にやりたい。

 こんなにもロイドのことを考えてしまう。それが例え苦しくても、離れる方が嫌だと感じる。

 こんな気持ちになるのは、ロイドだけ。ただ一人の特別だ。


(みんなが言ってたことは、全部正しかった)


 恋を知る前から、スイはロイドに恋をしていた。こんなに複雑で、面倒で、胸が締め付けられる気持ちだなんて、思いもしなかった。


「僕は、僕は違う……ちゃんと、ロイドを好きだ……!」


 喉の奥から声を張り上げたスイの頬を、強烈な打撃が襲った。一息で、口の中に鉄の味が広がる。


「おいおい、拳かよ」


 取り巻きの一人が茶化す。


「……はは、いや、笑えるほど礼儀がなってなくてよ」


 ヴィルヘルムは乾いた笑みを音だけこぼし、目を吊り上げてスイを見下ろした。


「そんな生意気な口を聞く大層な度胸があったとは。お前を捨てた親の代わりに、俺が教育してやろうか? ほら!」

「――っ!」


 今度は反対側の頬を、ヴィルヘルムが平手ではたく。歯を食いしばる暇もなく打たれ、無防備に開いたスイの口から血が飛び散る。

 目の前が霞む。両頬が熱い。頭を激しく振られて前後が分からない。血が口内から溢れて顎を伝っていったが、感覚はなかった。


「うっ、うぅ……」


 力なく呻き頼りない手足で抵抗するスイに、ヴィルヘルムは怒鳴り散らした。


「違うだと? 部外者のくせして何が分かる? これだから世間知らずのお貴族様は傲慢でかなわねえ」


 呼吸を荒げ、ヴィルヘルムが大仰に嘲弄する。


「決めたぞ。こいつは勝手に街へ出たため消息不明。哀れなお坊ちゃんは拐かされたか殺されたか、痛ましい事件に巻き込まれて行方知れずになってしまった。それでいこう」

「いいね。形が変わっても関係ねえから楽でいい」

「まだ見れる顔は残しとけよ。こいつの白い肌、ちょっと気になってたんだよな」


 男たちの会話は、水の中にいるように遠くぼやけてスイの耳には届かない。


「手始めに指の一本でも折ってやろうか」


 ヴィルヘルムがスイの手首をとった。萎えた腕の容易さに男は下卑た笑みを浮かべていたが、ふと眉を寄せて後ろの取り巻きを振り返った。


「おい、何か持ってんのか」

「何かって何だ」

「食いもんだよ」


 ヴィルヘルムの唐突な言葉に、男たちが怪訝に返す。


「こんな時に菓子なんざ持ち込むな。そんな馬鹿みてえに匂わせ、て、……?」


 ヴィルヘルムが動きを止めた。歪に力んでいた顔が、徐々に緩んでいく。そして一呼吸の後、男は突如大きく体を引き攣らせ叫んだ。


「うう、ぐうぅぅ……!」

「何だ!? どうした、……あ?」


 取り巻きの一人が動揺を見せたが、彼も突然床に膝をついた。項垂れて頭を搔きむしり始める。


「ああ、何だ、どうなって……」

「いてぇ、頭が……あ、熱い……!」


 もう一人の男も、壁に手をついて今にも倒れそうにしている。

 何が起きたのか、と混乱にスイが起こしかけた体を、ヴィルヘルムが即座に床へ縫いつける。血走った瞳にびたりと見据えられ、スイは息を呑んだ。


(この目……!)


 剥きだしの本能を孕んだ熊鷹眼。

 スイはそれに覚えがあった。川沿いの小屋で出くわしたルッソ。地下牢で会ったキオ。

 口の中は、ヴィルヘルムに殴られて以降ずっと鉄の味がしていた。スイはハッと己の唇に触れた。指先が、ぬるりと滑った。

 咄嗟に口を守ろうとしたスイの手を、ヴィルヘルムが乱暴に剥ぎ取った。間髪入れず、男の無骨な親指が口内に挿しこまれる。スイは反射的にえずいた。


「っぇぐ、ぅ!」

「ハァッ! ハッ、ハッ……!」


 人形のように瞬きを忘れた男の目は、スイの口元を凝視している。息つく間もなく、ヴィルヘルムはスイの唇へ食らいついた。


「ンぶっ……! ぃ、あっ!」


 即座に、男の舌がぬるりとスイの口内へ侵入する。上下の歯の間に指を挟まれているせいで、食いしばって防ぐことができない。

 必死に手足をばたつかせても、箍の外れた力で馬乗りになるヴィルヘルムはびくともしなかった。

 不躾な舌は吐き気がするほど深くまでスイの口の中をかき回し、頬の内側で血を流す傷をすぐに探り当てた。


「ッぃ、ゃめ、ぅっ……あぅ!」


 じゅるじゅると、スイの唾液ごと啜る下品な音が響く。固くした舌先で傷口をほじられ、敏感な粘膜に痛みが走った。

 取り巻きの男の一人は、床に散ったスイの血を朦朧と舐めている。もう一人は白金の髪を鷲掴んで、次は自分の番だと言わんばかりにヴィルヘルムからスイを奪おうとする。


「ウゥアアァ……!」


 食いつくされる、とスイは思った。骨がなくなるまで、跡形もなく貪られる。


(こわい、いやだ、いやだ!)


 男たちはスイに寄ってたかり、一人はついに剥きだしのスイの手首に噛みついた。食い破るまでには至らないが、皮膚に歯を立て、柔肌の感触を味わうようにねっとりと舌を這わせる。


(いやだ、まだ……)


 まだ、ここで終わりたくない。


(まだ、ロイドとやりたいことが、たくさんあるのに……!)


 その時、けたたましい音を立て、機密室の扉が勢いよく開いた。


「取り押さえろ」


 凍てつく声音とともに、複数の足音が迫る。

 身体が急激に軽くなり、暗かったスイの目の前が開けた。


「があぁあっ……! おれのだ、俺の……!!」


 スイから引き剝がされたヴィルヘルムが、甲高く喚き散らしていた。


「……お前のものだと?」


 誰もを屈服させる、重く威圧的な低い声色。その声を、スイは知っている。


「ロイ、ド……」


 全ての輪郭がぼやける滲んだ視界で、スイの大好きな青色が二つ、鈍く輝いていた。


「スイ」


 ロイドは即座にスイに駆け寄った。


「スイ、息をしろ。俺が分かるか」


 上体を慎重に抱き起こされ、か細く咳込みながら、スイは軋む首で小さく頷いた。


「直ちに連れ出せ。書架を出るまで呼吸をするな」


 後を頼む、と短く指示を出し、ロイドはスイを抱え上げた。

 ロイドの温もりに、スイはほうと細い息を吐いた。体のあちこちがずきずき痛む。

 スイが薄く瞼を開くと、鼻から下を布で覆った男二人が、もがくヴィルヘルムたちを拘束していた。

 スイはそれ以上頭痛に耐えられず、まつ毛を伏せてくたりとロイドの胸に体を預けた。

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