33. 独占欲
スイを抱えたロイドは、速やかに医務室へ向かった。休暇をとったキオのいない医務室は、冬の空気にしんと静かだ。
ロイドはスイを、そっと寝台に横たえた。
「ロ、イ……ぃっ……」
名を呼ぼうとして、スイは眉をしかめた。顔の筋肉を動かすと、頬から顎にかけて痛みが走る。
「無理をするな。少し待っていろ」
ロイドは一度その場を離れると、水桶や薬などを手に戻ってきた。
「顔が腫れている。体はどうだ、痛むところはあるか」
「うん……」
蹴りや打擲を食らった頭部が最も痛むけれど、本棚に打ち付けられた箇所や、抵抗した際にあちこちぶつけた手足も痺れている。
湿らせた手巾で、ロイドがスイの口周りを拭う。産毛を撫でるように、丁寧に汚れを清めていく。白い布は、スイの血で赤く染まった。
「口の中を切ったな。血を洗い流せ。起こすぞ」
ロイドがスイの背の下に手を差し込み、ゆっくりと上半身を持ち上げる。
スイは差し出された水杯を力の入らない指で受け取ると、そろそろと口に含んだ。
「……っ」
口内の傷に水が染み、スイは息を詰めた。ロイドに背をさすられながら、桶の中に水を吐き出す。三度ゆすいでも、まだ水はいくらか血で濁っていた。
「薬を飲め」
続けて薬を溶かした別の水杯を、ロイドが口元にあてがう。スイは餌付けされるように、一口ずつこくりこくりと体内へ流し込んだ。ほのかな苦味が舌の奥を刺激する。
「……すまなかった。もっと早ければ……」
奥歯を噛みしめるような表情をロイドに解いて欲しくて、スイは緩く首を横に振った。
「ううん……うれしい。いつも、たすけてもらって、ばっかりで……」
大きく唇を動かせないため、くぐもった呟きになった。
地上を出てから、スイはロイドに助けられっぱなしだ。
始まりこそ捕捉者と囚虜だったけれど、ロイドに出会わなければ今頃スイは死んでいた。
例え善意ではなく、ピュシス調査という別の動機があったとしても、スイに治療と食事を施し、命を繋げたのはロイドだ。
文字を学ばせ、知識を与え、信念を持てと、生き方を教えたのはロイドだ。
恐れて閉じこもってばかりだったスイの世界を、ロイドは開いてくれた。
(やっぱり、これが「恋」なんだ)
ロイドの腕に体重を預ける。ロイドの傍は、こんなにも心地よい。これを特別な愛情と言わず、何と言うのだろう。
「スイ」
呼ばれ、仰ぎ見る。いつまでも新鮮に惹かれ続ける青空が、間近でゆらりと燃えている。
「ここへ、ヴィルヘルムが食いついていたな」
「……うん。血を、舐めてるみたいだった……」
ロイドの親指が、スイの下唇を押した。
「……許せ。お前に蹂躙の痕を残しておくのは、腹立たしく耐えがたい」
「? どういう、んっ」
聞き直そうとしたが、叶わなかった。ロイドの顔が下りてきて、有無を言わせず互いの口元が合わさる。
「っ、ロ……ぁっ」
僅かに離れては角度を変え、何度も押し付けられる。柔らかさを確かめるように、ロイドの舌がスイの唇を湿らせた。そして慎重に、内部へと割って入ってきた。
「は、はっ、ふ……」
傷に障らぬようゆっくりと、唇の裏側をロイドが舐めとっていく。あまりの熱さにスイはとろりと目を伏せた。頭がくらくらする。嫌悪感しかなかったヴィルヘルムの嬲りとは、明らかに違う。
ぼうっとし始めたスイの顎が、服従するようにひとりでに緩む。その隙を狙ったロイドの舌が、スイの舌を絡めあげた。
「んんっ、んっ……!」
すぐそこに生傷があるのに、麻痺したように痛みを感じない。みるみる上がる体温に体が煮えてしまいそうで、スイはロイドの胸元に縋りついた。舌を吸われるたび、尾てい骨まで甘く痺れる。
「っは、はぁッ……はっ……」
呼吸を忘れたスイが空気を求めて喘ぎ始めたのを察し、ロイドはようやく唇を離した。スイは肩を大きく上下させ、喉を焼くほど熱い息を吐き出す。
こんなに深い口づけはしたことがない。アルマとのそれは、唇を吸ったり食んだりする程度だった。
ロイドと前に唇を合わせたのだって、初めて空を見た日、ほんの一瞬触れ合うだけだった。
「……本当にお前は、目を離し難い」
ロイドはスイの肩まで手を回し、胸元に引き寄せしっかりと抱き込んだ。
男の腕の中はひどく落ち着く。ここなら安全だと、瞳が勝手に潤み出す。ロイドの横にいれば、きっとどんな恐ろしいことも平気だ。
ロイドはスイの目元を手のひらで覆った。視界が暗くなったのにつられ、親鳥の懐にいる雛のように、スイは安堵しきった小さなあくびを漏らした。
「もう何も心配するな。目が覚める頃には、全て終わっている」
静かに語りかける男の声色に寝かしつけられ、スイはとぷんと夢の世界へ沈んでいった。
寝息が深くなったのを確かめ、ロイドは抱いていたスイの上体をゆっくりベッドの上へ戻した。
スイに飲ませた水には、痛み止めと眠り薬を含ませておいた。ロイドの狙い通り、スイは隙だらけの純朴な寝顔を見せている。
スイの頬を撫でる。まろくいたいけなはずのそこは、みる影もなく酷い有様だった。
鬱血して腫れあがり、穢れのように紫黒く染まっている。白すぎるほど白い肌が余計にそれを強調し、目を覆いたくなるほど痛々しい。
手首には、ヴィルヘルムの取り巻きがつけた咬傷がくっきりと残っていた。普段よくまとまっている艶髪も方々に荒れている。
誰の目にも明らかな、暴行の痕跡だった。
ロイドはスイの肌の表面を水で清め、傷に薬を塗り、綿布や包帯をあてた。
手際よく処置を施し、小さな体が冷えぬよう厚いうわがけで肩まで覆い、静かに医務室を出た。
「奴らはどうなった」
部屋の外では、短髪長身の団員が待機していた。ロイドが固い声をかける。
「はっ。ひとまず取り巻きの二人は地下牢へ。主犯ヴィルヘルムは禁錮室でクラウスが見ています」
さっと背筋を正し答えた男の名はランドルフ。実直で、忠誠の厚い人物だ。
「お前たちに異常はなかったか」
「機密室で少しばかり目眩はしましたが、外の空気を吸うと収まりました」
「幸いだ。お前は地下牢で待機しろ。俺はこれから禁錮室へ向かう」
ランドルフは手本のような敬礼を示すと、すぐさまロイドの指示に従った。
ランドルフとクラウス。ロイドと共に機密室へ入り、ヴィルヘルムたちを取り押さえたのは彼らだ。
二人はこのティダモニアで、機密部隊という特殊な所属にある。
護衛や警邏といった表へ立つ通常の任務とは異なり、諜報や追跡など、隠密を要する仕事を主にこなす。武術の腕だけでなく鋭い洞察眼や判断力を求められる、精鋭揃いの部隊だ。
彼らはロイドから、スイの秘密を一部知らされている。
スイと出会ったあの日、ロイドは裏切者ルッソとの関与を疑いスイを拠点まで連れ帰ったが、複数犯の可能性を捨てず、その後も捜索の手を緩めなかった。
ルッソを真に手引きしていた男を捕らえることができたのは、ランドルフやクラウスら機密部隊の功績である。
故に二人は地下の囚虜が入れ替わったことも、スイが貴族の子息などではないことも承知している。
ロイドは事情を知る彼らに、スイの一人行動を監視するよう命じた。スイに気付かれず後を追うなど、彼らには造作もない。
ヴィルヘルムの件をスイの報告よりも先に知れたのは、二人がいたからだ。
彼らの役割は、見張りと見守りだ。緊急事態――特に、万が一にスイの体液が露出した際は、すぐにロイドに知らせることになっていた。
スイの体液の危険性を、ロイドは二人に伝えた。彼らは謎の現象に驚いていたが、選び抜かれた精鋭なだけあり、一切の詮索をせず任にあたった。
スイが、ヴィルヘルムたちによって機密室に連れ込まれた。そう聞かされた時、ロイドは頭の芯から血が引いていくのを感じた。
ロイドへの報告を優先した二人の判断は正しい。スイがこの後暴行を受けるであろうと察しがついていても、機密室という狭い空間で万が一スイが体液を流した場合、ヴィルヘルムたちと共倒れる可能性がある。
ロイドはすぐさま書架へ向かった。
機密室へ立ち入った時にロイドを襲った衝撃は、計り知れないものだった。
白い痩躯に、獣のように群がる男たち。薄い体を床へ縫い付け、必死に抵抗する四肢を舐めしゃぶっている。
目の前が赤くなるのを、ロイドは息を殺して制御した。スイに馬乗りになっているヴィルヘルムを、力任せに引き剥がした。
スイにか細く名を呼ばれなければ、ロイドはその手でヴィルヘルムの顔の形を歪めていたかもしれない。
ロイドが禁錮室へ到着すると、ランドルフの言った通りクラウスが待機していた。眼鏡をかけた切れ長の理知的な目を持つこの男も、非常に有能で曲者だ。
「様子はどうだ」
「いくらかましにはなりましたが、まだ酔っているような状態です」
クラウスが顎をしゃくって指した部屋の奥から、苦しげなうめき声が響く。
禁錮室は、謹慎者や懲罰者を入れる用途で作られた部屋だ。ロイドがこの拠点の責任者となって以降は使われたことがなく、久しぶりに開かれた空間は少しばかり埃くさい。
寝台や最低限の家具は置かれており、地下牢ほど殺風景ではないものの、この部屋には人間を拘束する設備が備わっていた。
ヴィルヘルムは手足を縛られた上で、鎖で壁に繋がれ、床に転がっている。先ほどのように暴れたり叫ぶことはもうないが、虚ろな目で力なく唾液を垂れ流していた。
「副、だん、ちょ……」
枯れた声で、ヴィルヘルムがロイドを呼んだ。そばにしゃがみ、顔を覗き込む。
「スイの血液にやられたか」
機密室へ立ち入る直前、ロイドはランドルフとクラウスに鼻と口を布で覆わせ、その場を離れるまで呼吸を止めるよう命じた。その甲斐あり、二人は理性を保っていられた。
スイの体液はまず匂いから人を狂わせ、体内へ取り込めば発狂が加速する。
それは、キオと行った調査で得た知見だった。
実験の対象は、ルッソの裏切りを手引きした男。スイと入れ替わりに地下牢へ収容したその男で、採取したスイの体液を用い実験を行った。
スイの尿や唾液も男を酩酊させたが、血液と精液は特に作用が強かった。
鮮度にもよるが、口にした男はあっという間に人を人でなくし、やがて喉元をかきむしる自傷行為にまで及んだ。
連日スイの体液を摂取させられたためか、男は最後には自我を失い叫び狂って死んだ。
この世の残酷など何一つ知らぬような顔のスイに、体液の用途を幾度か聞かれたが、人体実験に使ったと言うのは憚られた。故にロイドは未だ、調査の詳細を説明できていない。
新鮮なスイの血液を舐めたヴィルヘルムは、そう簡単に正気には戻るまい。
「あれは、美味かったか」
ロイドに髪を掴まれ、ヴィルヘルムが顔をしかめる。
「あ、れは……なん、ですか……熱い……体が……くだ、ください……あれを、ください……」
味を思い出しただけでもたまらないのか、ヴィルヘルムがはくはくと喘ぎ始める。途端に血走り始めた下種の目が、ロイドの癇に小さな火をつけた。
「誰がやるものか。……誰にもやりはしない。お前は本部へ移す」
ロイドは立ち上がり、汚いものでも触ったかのように雑に手を払った。
「ほ、んぶ……?」
「ああ。お前は明日から団長の預かりとなる」
ロイドの言葉に、ヴィルヘルムが目を見開いた。
「い、いやだ……俺は、副団長、あなたが……あなたのそばで……!」
「敬愛する叔父上のいる王都だ。きっと快適だろう。……クラウス、後始末を」
「はっ」
ロイドはクラウスに目線で合図をすると、悲痛に喚くヴィルヘルムにもう一瞥もくれず禁錮室から出た。
休暇に入り人気が少なくなったとはいえ、周囲に人がいなかったのは幸いだ。この一連の騒動を目撃されたとなれば、説明に骨が折れる。
窓から外を見る。書架へ入る時には空を赤く染めていた太陽は沈み、夜が来ていた。
ロイドは、昼の空が煩わしかった。特に、雨のないこのクリダラへ配属となった際には、何の因果かと己の運命に呆れさえした。
――お前の空の瞳は、国の宝よ
毎日のように語りかけてきた、今は亡き母の声が蘇る。それは、ロイドにとって呪いの言葉だった。
――空を見たくなったら、ロイドを見てもいい?
けれどスイは、ロイドのことを何も知らない。
そんな少年が、ロイドの瞳を美しいと言う。ロイドだけを、ただロイドの瞳だけを見つめ、そう言った。
太陽や、雲や、山や海も知らない者の目にも、青空は美しい。青空は、ただ青空であるだけで美しいのだと、ロイドは教えられた。
本人に自覚はないだろうが、スイはロイドに頼りきった甘い顔でくるくると笑い泣く。 一瞬でも手を放せば、そよ風一つにさらわれそうなほどスイの純真さから、ロイドはいつの間にか目が離せなくなっていた。
己に価値がないと悩むスイの姿は、昔の自分を見ているようだった。
同じだった。自分自身などどこにもない、ただ周囲の望むままの姿でいることに苦しんでいた、かつての己と同じだと。
ロイドはスイを、その呪縛から解放してやりたかった。生き方を決めるのは自分自身なのだと、今の己が生きる道を見つけたように、スイにも信念を持ってほしい。
それは同情の域を超えた、慈愛と言えた。
「――成程。食欲、か」
先ほどの口づけを思い出す。キオが以前言っていたことを、ロイドは理解した。
初めて触れたスイの唾液、そして血液は恍惚とするほど甘美だった。
スイの体液を摂取しても、なぜかロイドはヴィルヘルムのようにはならない。
しかし、確かにあれは無限に啜っていたいと思わせる。甘い菓子を好まないロイドですらくらむほど、舌の先から頭までぐずぐずに溶かすような猛烈な甘さ。
そして体の芯から本能を叩き起こされ、勝手に熱が煽られるあの感覚。
ヴィルヘルムがスイを味わったという事実だけで、腹の底がこんなにも滾るように苛立つ醜い独占欲。
「さて、お前をどうしてくれようか――」
顔を覗かせ始めた月を見上げ、ロイドは自問するように小さく唸った。
暦が終わり、新たな一年が間もなく始まる。
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