13. 接触

 もう目が覚めることはないと思っていたスイは悄然とした。この見慣れぬ石床を見るのは二度目だ。両手は相変わらず鎖付きの鉄輪で束ねられている。


 どれだけ時間が経ったのか不明だが、頭はいくらかハッキリしていた。

 眠る前と違うのは、柔らかなうわがけがかけられていることと、ぼろだった敷物が厚手のものに変わっていたこと。いくらか薄汚れているが、村で使われていた寝具よりも作りはしっかりしている。

 両手をつき、スイは重い頭を持ち上げて体を起こした。


「う……」


 全身が軋む。びっしょり汗をかいて不快だが、寒気はかなり減った。粗相をして濡らした衣服は、いつの間にか清潔で新しいものに替えられている。

 軽い目眩を堪え、石壁と格子に囲まれた四角い空間を改めて見回す。明瞭さを取り戻した今ならば、色々なものが目につく。


 石を平らに削るのは相当な技術を要するのに、壁や床にはほとんど凹凸がない。

 格子向こうに設置された篝火は大きい。あれだけの炎を維持するには、貴重な乾燥薪を贅沢に使う必要がある。


 スイのそばに、蓋のない小壺が置いてあった。中を覗くと、なみなみ揺れる水面が見えた。


(水?)


 途端、スイの喉が猛烈な乾きを訴える。長い間何も口にしていない体が、それを飲めと激しく急かす。

 べったりと張り付きあった咽喉が、物欲しげに粘っこく動いた。衝動に突き動かされたスイは不自由な両手で壺を持ち上げ、中身を勢いよく口内へ流し込んだ。


「ンぐ、かほっ、げほ……!」


 一息に飲み込んだ水が気管に入りかけて咽る。構わず、浴びるように壺を傾ける。勢いあまって、口端から溢れた水が衣服に染みた。あっという間に、壺は空になった。


 水分をとりこむと、淀んでいた身体が循環を始める。濁った脳内が洗い流され、汚れた視界が開けていく。

 生の実感に、スイはしばし恍惚と呆けていた。耳の内側でうるさく鐘を鳴らされているようだった頭痛は、今や僅かに疼く程度に静まっていた。


 思考力が戻ってきたスイはゆっくりと、焦らず、これまでのことを振り返った。

 村を出てから、もう何年も経ったような心地だった。ひょっとするとこの17年間の方が幻だったのではないかとすら思う。

 帰りたいと願っても、煙を掴むような頼りない手応えと疲れだけが残る。本当は最初から、帰るところなんて無かったのではないか。

 自分の正体があやふやになってきたせいで、また勝手に涙が滲む。スイは首を振って気を散らした。


(ちかろう、って言ってた)


 意識を手放す直前にスイが会った二人の男は、それぞれをロイド、キオと呼び合っていた。

 そして二人の会話は不明瞭ながら覚えている。「ちかろう」とやらの意味は分からずとも、歓迎されていないことはさすがに理解できる。


(僕が絶滅した旧人種だって、もう知られてる?)


 寝ている間に、何かを調べられたかもしれない。


(すごく怒ってた。やっぱり……殺されるのかな)


 ロイドの凍てつく目と、突如荒れ狂ったキオの獰猛な顔。思い出しただけで、背筋に虫が這うようだった。

 そういえば、ともう一つ思い当たる。あの川沿いの箱に現れた男。スイに何か怒鳴っていた彼も、キオのように途中で状態が激変した。


 ガシャン、と響いた音にスイは回想から引き戻された。誰か来る。今度の足音は一人分だ。

 スイは咄嗟に這って空間の角へ逃げた。慌てたせいで、水の入っていた壺を蹴とばして、音を出してしまう。しまった、と後悔しても遅い。

 ここは狭く丸見えだ。隠れられる場所などない。スイは体を石壁に押しつけ、限界まで丸くなった。


「目が覚めたか」


 格子の向こうに現れたのはロイドだった。輝きを放つ青い瞳で、スイを見据える。


「顔色は良くなった。体調はどうだ。水は……飲んだな」


 ロイドは倒れている水壺を一瞥した。

 出口がないと思っていた格子の一部が、ロイドの手によって開かれる。端で竦むスイに構うことなく、ロイドは格子の内側へ入ってきた。


 男の一挙手一投足が、スイにはひどく緩慢に見えた。奥歯がガチガチと鳴る。

 その手がいつ自分にふりかかるのか、慄然として瞬きができない、目を逸らせない。ロイドの大きな手が伸びてきて、スイはきつく瞼を閉じた。

 急所である喉に触れられ、スイから潰れたような短い悲鳴があがる。


「熱は……マシになったか。そう縮こまって、また粗相をするなよ。食事を持ってきた」


 長い指はスイの首を数度撫でた後、あっさりと離れていった。

 涙の滲む目を恐々と開ける。ロイドは手に持っていた盆を床に置くと、さっさと格子の向こうへ戻って行った。開いた部分を再び閉め、置いてある木の椅子へ鷹揚に腰かける。


「早く食え。死なれては困る」


 スイの側に残した盆を、ロイドが顎で指す。躊躇いがちに目を向けると、木製の板の上に器が乗っており、葉物を散らした粥が入っていた。

 食事を施され、スイは困惑した。殺されるのではないのか。


「死なれては困ると言っただろう。毒は入っていないが、信じるかどうかは勝手にしろ。餓死か毒死か、まぁその程度ならばお前にも選ぶ権利はある」


 ロイドは淡々と告げる。

 スイの持つ毒の知識と言えば、触れればかぶれる植物、神経を痺れさせる針を持った虫、食べると腹を壊す茸、時には薬になるが、下手をすれば命を落とす――その程度だ。

 人を殺めるために意図的に食事に混ぜるだなんて、思いついたこともない。


「お前を殺すのならとうにやっている。食うのか、食わないのか、さっさと決めろ」


 抑揚のないその口調は、確実にスイを焦らせた。

 毒が入っていたとして、それがどんな苦痛を起こすのか想像もつかない。けれど、こうしてまごついて男の苛立ちを買えば更に酷い手打ちを受けるかもしれない。


 スイは震える手で粥の入った器を持ち上げた。戦慄く唇に押し当て、一口を含む。

 淡い塩味に、薬味のほのかな苦味。相当に薄められほとんど液体であったが、こんなに米を甘いと感じたことはかつてなかった。

 温かなものが胃に入ってきたとたん、麻痺していた食欲が蘇る。スイは夢中で嚥下した。んく、んくっ、と音を鳴らし、喉を上下させる。

 呼吸も忘れて器の中身を空にすると、スイは大きく息を吐いた。腹が満たされた喜びに、生理的な涙が一粒溢れる。

 妙な味はしない。体に異変もない。今のところは。


「匙も使わず……」


 くっ、とロイドが喉を鳴らした。ずっと観察していたらしい。


「名は何だ」


 問いの意図が掴めず、スイはロイドを仰ぎ見る。


「名乗りたくなければ偽名でも構わん。今後お前を呼ぶのに便宜上必要なだけだ」


 感情のない形骸的な物言いだ。ロイドは恐ろしいけれど、栄養を摂った肉体が安堵を得たのか、強張っていた筋肉が緩み、スイの口からはするりと声が出た。


「……スイ」

「スイとは、姓か、名か」

「せい?」


 スイは狼狽える。覚えのない単語だった。


「せい、って」

「一族固有の名だ。……いや、説明するのも馬鹿らしい。言う気がなければ言わなくていい」


 スイの純粋な疑問は、下手な抵抗と捉えたロイドにすげなくかき消された。

 一族固有の名など、聞いたことがない。スイはスイで、アルマはアルマで、村人全員がそうだった。

 分かってはいたが、地上には知らないことが山ほどある。この調子で無知を露呈し続ければ、いずれ旧人種だと暴かれるかもしれない。


「歳は」

「じゅ、17」

「そのナリで成人しているのか? ……まあいい」


 無味だったロイドの目が、わずかに開かれる。何かおかしなことを言ったかとスイは構えたが、ロイドは深堀りしてこなかった。


(地上は、18歳が成人じゃないのかな)


 偶然にも得られた知識を、スイはしっかり心に留める。


「体調は」

「え、あ、楽には……」

「傷はまだ痛むか」

「傷?」

「体中にすり傷があった。額の切り傷は少し深い。眠っている間に薬を替えたが」


 言われてスイは額に触れた。綿の布が巻かれたそこを指で押すとぴりっと痛みが走ったが、酷くはない。


「ちょっと、痛いけど……あんまり」


 ロイドはスイの返答に「そうか」と短く返し、口を閉ざした。ロイドの態度は冷淡だが、前回のような敵意は感じられない。

 ロイドの思惑が読めない。沈黙の中、スイは指先一つ動かせなかった。永遠と思える静寂に冷や汗が滲み始めた頃、ロイドが懐から何かを取り出した。


「時間だ」


 手元の丸い小物を見つめた後、ロイドは立ち上がった。再び格子の中に入ってきたのでスイはまた端へ逃げたが、男は空になった器と盆を回収するとすぐに出た。


「夜にまた来る」


 そう残し、ロイドはあっさりとスイの前から姿を消した。ガシャン、と扉の閉まる音が再び鳴る。


(次って? 僕を殺さないの?)


 スイは、面食らった顔でロイドの行った方を見ていた。

 何が起きても、丸腰のスイには全てを受け入れるしか選択肢がない。己の無力と歯がゆさに、スイは膝を抱えて下唇を噛んだ。




「どうだった?」


 喜喜として、キオが地下から出てきたロイドを出迎える。


「また丸一日眠ってたね。今度は起きてた? 何もなかった? お話してくれた?」


 質問責めを無視しさっさと自身の執務室へ向かうロイドの後を、キオが浮かれた足どりで追う。


「あっ、お粥なくなってる。食べてくれて良かった。解熱薬と一緒に筋弛緩剤も混ぜておいたから、ちょっとは緊張ほぐせたんじゃない?」


 手元の盆を覗き込み、空の器に高揚するキオにロイドは一瞥を向けたが、無言で歩を進めた。

 スイに与える食材と薬の選定は、キオに任せてある。目的のためならば治療目的でない薬まで躊躇いなく使用するキオの性分を、ロイドはよく分かっていた。


 自室へ到着し、ロイドが執務用の厳めしい椅子に腰を下すと、キオは机の上に手をついて無邪気に身を乗り出した。


「異変はない。匂いもしなかった。水も食事も摂った。体温は微熱まで下がった。名はスイ、歳は17」


 地下で手に入れた情報を簡潔に伝えると、キオの饒舌は増した。


「スイかぁ。微熱があるなら薬はもう少し飲んでもらおう。17歳ってほんとかな。うちの15歳の見習いより小柄じゃない? というかそれだけ? ほかに何か聞いてないの?」

「……お前が追い詰めるなと言ったんだろう。無用な雑談でもしろと?」


 ロイドは辟易と首を横に振った。キオの話にまともに付き合っていると日が暮れる。


「どうせロイドのことだから、その怖い顔で睨んでたんでしょ」

「睨んでいない」

「普段が既に睨み顔なんだよ、君は」


 キオの軽口に慣れているロイドは、いちいち反応を示さない。手応えを見せぬ相手につまらなさそうに溜息をつくと、キオは改まって真面目に問いかけた。


「……それで、どう思った? あの子は内通者だと思う?」

「まだ信用に足らん。だが、嘘をついているとすると……その能力は相当に低いな」

「どういうこと?」

「姓を問うと、適当に名乗れば良いものを、姓そのものを知らないそぶりを見せた。少年のなりをしておいて17歳というのも不自然だ。分かりやすい嘘で投げやりに抵抗し、腹をくくって死にたがっているのかと思えば、食事には勢いよく食らいついていた」

「へぇ」

「言葉遣いに礼儀はなく、教育や躾が足りていない子供に近い。常に怯えているくせに、生意気な芝居をする意図が読めん。もしあれが全て真実ならば――家から逃げたか攫われてきたどこぞの箱入り令息か、文明から外れて生きてきた野生人か。やはり妙の一言に尽きる」


 自分で言いながら、どちらにも当てはまらないだろうとロイドは考えていた。

 スイが最初に身につけていたものは、ひどく簡素でつくりも粗末だった。手のひらの肉刺まめは、明らかに労働者のものだった。

 一方、全身に付着した土汚れや擦り傷は新しく、肌艶や髪からは直前までそれなりの手入れがされていることが伺えた。

 世間知らずの令息にしては汚く、放浪者にしては綺麗すぎるのだ。


 内通者であればいっそ楽であったかもしれない。厄介な拾い物をしたかと、ロイドは喉の奥で小さく唸った。

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