12. 手がかり

 王国エアネスタは、大陸随一の領土を誇る。建国から千年――温かく肥沃な土地、充実した軍事力、発展した技術を有し、他の追随を許さぬ強国として君臨している。

 その圧倒的地位を外交に活かし、他国との協定を多様な形式で結び、この100年は戦のない長い平和な時代を実現していた。エアネスタ国民はひ孫に会えると言われるほど、人々は健康で長寿だ。


 ここはエアネスタ王都アネツィオから北東、馬車で八日ほどかかる街クリダラ。

 北の国境を走るサズニ大山脈を遠く臨み、東の隣国へ辿る道が通る、商業で栄えた国内第三の都市。

 巨大な私設自警団組織ティダモニアの拠点が、ここクリダラにもある。

 内陸のこの街が雲に覆われることはほとんどない。クリダラには今日も、果てのない青空が広がっていた。


「誰か手を貸せ!」


 早朝、鬼気迫る声が舎内に響いた。ただならぬ様子に団員たちが次々と集まる。


「副団長、何かありましたか」


 いの一番にかけつけた中堅の団員が目にしたのは、この拠点に駐在する専属医を担いだ上官ロイド・マクグラスだった。後から到着した者たちも驚きに息を呑む。


「お二人で地下牢へ行かれた筈では……」

「説明は後だ、キオをすぐ医務室へ」

「は!」


 団員たちはロイドから素早くキオを下ろし、よく鍛錬された手際でその体を運んだ。

 変わり者ではあるが常に落ち着いているキオが、苦し気に唸って四肢を痙攣させている。死にかけの動物を連想させる姿は、彼らの背筋を凍らせた。

 ロイドもすぐに後を追う。医務室のベッドに寝かされる頃には、幸いにもキオの興奮はいくらか静まり、焦点の合わない瞳で空を見つめるだけになっていた。


「副団長、地下牢には件の関係者を捕らえているのですよね? 一体何が……」


 団員の一人が、恐々と問いかける。


「会話の途中で様子が変わった。突然狂ったように……」

「その囚虜が原因ですか?」

「そう思われるが……」


 現場にいたロイドですら、説明できるほど事態を把握できていない。口元に手をあて、状況を振り返る。


 あの囚虜を牢へ入れる前、持ち物を調べたが奇妙なほど何も持っていなかった。

 念を入れて衣服は全て取り替えた。体内に何か仕込んでいた可能性もあるが、指一本触れず、器用にキオにだけ細工したとは考えにくい。


 険しい顔で考え込むロイドを、団員たちは固唾をのんで待つしかなかった。

 一昨日の夜、ルッソという団員が、仲間を一人殺し逃げた。緊急招集を受けた団員たちはロイド指揮の元、交代で夜通し犯人の捜索にあたっていた。

 そして昨日の朝、帰ってきたロイドより通達があった。ルッソは死んだが関係者を捕らえた、と。

 ロイドは、医者であるキオ以外の地下牢立ち入りを禁じた。仲間を殺された怒りを刺激し、混乱を招かないためだった。


 関係者の捕縛から丸一日経っても、新たな知らせはない。ロイドの尋問に耐えるなどどれだけしぶとい相手なのかと、皆が続報を待っているところだった。

 得体の知れない囚虜への不信感が皆の中で膨れ上がる中、弱弱しい声があがった。


「うぅ……うるさ、い……」


 声の主はキオだった。ぐったりとしながら、自分を囲う団員たちをぐるりと見回す。その目はもう、血走ってはいない。


「先生!」

「キオ先生! お体は!」


 身を案じる声を浴びながら、キオは苦笑を浮かべてのろりと上体を起こす。


「うん……まぁ、多分問題ない。僕の眼鏡はどこ?」

「地下牢から出た時に、落とされていました」


 一人の団員が縁のない眼鏡を差し出す。


「ありがとう。……ロイドと話をしたいから、二人にしてもらっていい?」


 団員らはロイドを仰ぎ見た。上官が首を縦に振ったことを確認すると、彼らは一礼し素早く医務室から出て行った。


「さすが、ロイドの部下。躾けられてるなあ」


 一糸乱れぬ統率力に、キオは笑った。しかしその声に覇気はなかった。受け取った眼鏡を装着し、気怠げに溜息をつく。


「体に異常は」

「ないよ。疲労感でくらくらするけど、どこも痛くないし、すぐに回復すると思う」


 キオは肩や腰を回し、関節の動きを確認する。


「……僕、どうなってた?」

「覚えていないのか?」

「記憶が曖昧なんだ」


 ロイドは僅かに逡巡したが、一息ついた後に口を開いた。


「地下牢で突然うずくまり、奇声をあげて奴に掴みかかろうとしていた。言葉が通じず、制止にも激しく抵抗していたため、強引に抱えて連れ出した。言うまでもなく、理性的な挙動ではなかった」


 ロイドの説明を一語一句を漏らさぬよう聞き入っていたキオは、しばらく沈黙した後、詰めていた息を吐いた。


「一体、何が起こった」

「……まだハッキリしないことだらけで、ただの主観だけど……地下牢で、あの子が漏らしちゃったじゃない?」

「ああ」

「あの時、信じられないほどいい香りがしたんだ。絶対に、人の排泄物の匂いじゃない。それを嗅いだ瞬間、急に意識が遠のいて体の中が煮えるように熱くなった。思い返せばあれはきっと……食欲だ」

「食欲?」


 思わぬ話に、ロイドが眉を寄せる。


「上手く言えないけど……猛烈に本能を揺さぶられて、あっという間に理性を失った。とにかく、あの子を食いたくて堪らなくなった。あの感覚は、僕には食欲としか表現できない」


 思い出そうとすればするほどつきつきと頭痛が起こり、キオはこめかみを抑えた。


「それからの僕はどうだった?」

「牢から出た後は、状態は緩和していったように見えた」

「僕も、おぼろげだけどそこから意識が戻っていった気がする」

「……」

「あの子の排泄物がきっかけな気はするけど、排泄物に興奮するなんて、そんな嗜好持ってるつもりもないしなあ」


 当事者であるのに、好奇心を刺激されたキオの口調は軽い。元来キオは、未知に対して意欲的な性分だ。


「俺はそんな特殊な匂いは感じなかった。……だが」


 ロイドがふと口を開く。


「だが?」

「奴を捕らえた小屋で、ルッソはあいつにのしかかっていた」

「のしかかる? 乱闘になってたから殺したんじゃないの?」


 キオに聞き返され、ロイドは森の中の小屋の出来事を記憶から手繰り寄せる。


 昨日未明、クリダラから少し離れた森の中でルッソを捜索する道中、ロイドは川沿いに小屋を発見した。

 かつて釣り人たちが休憩所として建てたものだが、数年前に付近一帯での漁業規制が出て以降は誰も寄り付かず、自然の中で朽ち果てかけていた小屋だった。


 傍を通った際、遠目に扉が開いていることにロイドは気が付いた。

 人の気配を察知したロイドは離れたところに馬を留め、慎重に近づいた。中から、何かが激しくぶつかる音と怒声が聞こえた。死角から中を覗くと、人二人が揉めている様子だった。

 一人がもう一人に馬乗りになっている。こちらに背を向けているが、上に乗っている人物はその容貌や声でルッソだとすぐに分かった。


 ロイドは音もなく近寄るとするりと剣を抜き、隙だらけの男を刺した。逃げられない程度に傷を負わせ、捕えるつもりだった。

 しかし男が不規則な動きで暴れたことで、剣先は腿の太い血管を断ってしまった。

 激痛が走った筈の男は大量の血液を吹き出しても、ロイドを振り返らなかった。下敷きにしている何者かに夢中でかぶりつき続け、数拍の後に失血死した。

 ロイドは努めて冷静に切り替えた。生け捕りの失敗も想定の範疇ではあった。情報は、生きている方から聞き出せばよい。


 ルッソの下で、もう一人はぐったりとしていた。顔中が血と土に汚れた、随分と色味のない少年だった。

 子供相手にも一切油断せずロイドは再び剣を構えたが、虚ろで透けた瞳と視線がかち合ったかと思うと、少年はこと切れたように意識を失った。


 芝居かとしばし注視していたが、ぴくりとも動きそうにない。ロイドはひとまず剣を鞘へ収めると、ルッソの死体を脇に退け、無防備に横たわる少年を検分した。

 隠し武器など仕込んでいないか、貧相な体をくまなく確認したが、少年は身一つであった。内通先や背後組織であれば、こうも身軽なものだろうか。

 触れて分かったが、少年の体は熱かった。全身に切り傷やすり傷をつけ、血色が悪く肌が薄白い。


 ルッソと何を争っていたのか知る由もないが、尋問にかける価値はある。

 ロイドは少年が万が一にも死なぬよう応急処置を施し、この拠点へ連れ帰った後に地下牢へ収容した。


 あの時、少年はルッソと掴み合いをしているのだとロイドは見ていた。しかしたった今キオの口から出た「食欲」という言葉に、ぴんと来るものがあった。


「奴はあの少年に、文字通り食いついていたのかもしれん。今思えば、暴行にしては不自然な動きだった」

「えっ、全然乱闘じゃないじゃない!」

「あの状況下で、人を食っているなどと思うわけがないだろう」


 観察不足だと咎めるキオの目を、ロイドは煩わしげに振り払った。


「あの少年が小屋で失禁していた様子も、妙な匂いもなかったが……人の正気を狂わす奇人となると、原因を突き止めるまで誰も近づけるわけにはいかない」


 今回キオは理性を取り戻したが、次の保証はない。貴重な証人を失うのは手痛いが、不気味な症状の犠牲者を増やすくらいならば、あの少年には地下牢で飢え死んでもらった方がいっそ安全だろう。

 ロイドの中に浮かんだ不穏な選択肢を察知したのか、キオがパンと手を叩いて注意を引く。


「早まったこと考えてないよね? あの子、解熱して傷の手当てをしないと死んじゃうよ。少なくとも、さっき君は平気だったんでしょ? だったら君が面倒を見て」


 ロイドは眉を顰めた。


「なぜ俺が」

「僕は、あの子がルッソと繋がってたとは思わない。肌も髪も異様に白くて、あんな珍しい容姿じゃ目立たず動くには向かなすぎる。無実の可能性がある子供を、医者として放っておけない。治療については僕が指示を出すから、君が世話をして」


 先ほどまで朦朧と呻っていたとは思えない力強さで、キオは進言した。ロイドにここまであけすけな物言いができるのは、この拠点ではキオを除いていない。

 しかしロイドは提案を否定した。


「その考え方は甘いと言わざるを得ない。無関係だとすれば、有益な情報は何も持っていない、人を惑わす危険を孕むだけの人物ということになる。生かしておく意味は更にない。少年を解放して脅かされる命があるのならば、責任者としてやるべきことは決まっている」 


 意見を変えぬロイドに対し、キオは突きつけるように一本指をたてた。


「意味はある。少し調べたいことがある。について」

「……何?」


 ロイドの声色が変わる。


「ピュシスと関係があると?」

「まだ推測の範囲だけど、僕はそんな気がしてる。調査にはかなりの時間がかかるかもしれないけど、それだけでも、あの子を無視はできないだろ? 殺すには惜しいと思わない?」


 ロイドは険しい表情のまま口を噤んだ。青い瞳の奥に、小さな火が灯っていた。


「ただの偶然かもしれないけれど、少なくとも、君はあの子に近づいても平気だったという前例ができた。君しかいないんだよ。君があの子の世話をして。異常を感じたらすぐに引き上げて。君が地下から一定時間戻らなかった時の対策は……まぁ、それはこれから考えよう。君が問題ないと判断したら、また僕にも会わせて。直接色々調べたい」

「しかし、再び正気を失っては」

「いいさ。医者なんて病原菌から逃げてちゃ勤まらない。常に未知が相手の仕事だよ。もし僕がおかしくなったら、またロイドが君が何とかしてくれるしね」


 キオは肩を竦めた。

 ロイドは深く息を吐く。ピュシスの手がかりと言われてしまえば仕方がない。


「……分かった。しばらく様子を見よう。団員たちは、適当な理由をつけて遠ざけておく。それで、俺はどうしたらいい」


 ようやく許諾を得て、キオは「やった!」と調子良く拳を天井へ突き上げた。そしてロイドのうんざり顔に構わず、口早に膨大な指示をたたきつけていった。

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