11. 地下牢

 今日は、スイの好きなすまし汁よ。

 伯母が明るく言う。食卓には湯気をたてる椀が三つ並んでいる。

 顔に土ついてるぞ。今日もかなり掘ったのか?

 すでに席についた従兄が、布巾で頬を拭ってくれた。


「うん、あのね、今日は良さそうな地層を見つけたんだ。もしかしたら、水脈が近いのかも」


 すごいじゃない。

 お手柄だな。

 気が早いよ――


 家族と過ごす時間。いつも通りの光景。

 何の変哲もないのに、無性に愛おしい。どうしてか泣きたくて、叫びたくて仕方がなかった。




 ガシャン、と鳴った大きな音とともに、スイの意識が急速に引き上げられる。

 温かな家にいたはずなのに、床が冷たい。食卓に座っていたはずなのに、体は横になっているようだ。

 感覚の乖離に混乱するスイの睫毛が震えた。誘われるように瞼を開く。周囲は薄暗くてぼんやりしていて、夢の中と区別がつかなかった。

 目が覚めた途端にひどい寒気と頭痛に襲われ、乾ききった唇からか細い呼気が出ていった。

 足音が近づく。


「まだ寝てるかなあ。怪我も発熱もしてたし、こんな場所に閉じ込められて悪化してそう」

「あの場にいたんだ。関係者と見て拘束するのは当然だろう」


 話し声がするが、朦朧とするスイに内容は聞き取れなかった。

 すぐそこで足音が止む。重い目を何とか向けると、黒い格子の向こうから二人の人物がこちらを覗いていた。床に近いところから見上げると、両者とも天井に頭が着きそうなほど大きく見えた。


「あれ? 起きてる! 体は大丈夫? 水飲むかい?」


 栗毛の男が、しゃがんで声をかけてくる。伸ばしっぱなしの髪を雑に後ろでまとめており、透明な板で目元を覆う、見覚えのないものを鼻に乗せていた。


 微睡みから覚めてきたスイは視線を巡らせた。

 自宅の居間くらいはある小部屋だ。壁の三面は石で、一面は鉄格子が張られている。出入口は見当たらない。

 スイは敷布の上に寝かされていたが、薄く粗末なそれは石の冷えをそのまま伝え体温を奪う。


 石に囲まれた空間には慣れているのに、何かが違う。

 ここは家じゃない。


「うっ……!」


 槌で強く殴られたような激痛がスイの頭を襲った。吐き気にたまらず体を丸めようとし、じゃらりと鈍い音が鳴る。


「ああ、ごめんね。地下牢に入れる囚虜には枷をつける決まりでさ」


 栗毛の男が、ばつ悪そうに肩をすくめる。

 両手首をひとまとめに、重い鉄の輪が嵌められていた。そこから伸びる長く太い鎖は、壁と繋がっている。


「ち、か、ろう……? ぇほっ」


 繰り返そうとして、水分を失くした喉が痛む。


「よかった、言葉は分かるんだ。肌と髪がこのへんじゃ見ない色だったから、外国の子かもと思ったんだけど。君、丸一日眠ってたんだよ。一応軽く処置はしたけど、傷だらけだし熱はあるし、もしかして死んじゃうかもなって思ったよ」


 男が自分の額を指す。スイもつられて己の額にそっと触れてみると、派手な切り傷のついたそこに厚手の生地があてられていた。よく見れば、腕や首、体のあちこちにも布が巻かれている。


「キオ、無駄話はいい」


 軽い調子で喋り続けていた栗毛の男を、もう一人が遮る。怯むほど低い声だった。


「目が覚めたのなら、情報を引き出して終わりだ」


 その男の背筋の凍りつく無表情に、スイは息をのんだ。


(あ、あの目……)


 スイを見下ろす感情のない瞳の、不思議なほど鮮やかな青色には既視感がある。ゆるくうねる漆黒の髪は闇を纏っているようで、男の顔つきを更に鋭く見せた。


「何者だ。あの男――ルッソに何を吹き込んだ」


 抑揚のない、しかし確実な圧力を孕んだ声が容赦なくスイを刺す。


「裏に誰がいる。奴をどこへ逃がす手筈だった? 黙秘は賢明な判断ではないと、その身をもって理解したいか」

「う、あ……ぼく、僕は……」


 詰問の中身に全く追いつけず、スイはどもる。暗に黙るなと言われ命乞いのように口を開いたが、何も出てこない。

 せめて何か伝えねばと、拘束されている両手を床につき、岩のように重い上体を起こす。力のこもらない肘が、頼りなく震えた。


「こちらもさほど暇ではない。お前を丁寧に拷問にかける時間も惜しい。死にたくなければ吐け!」


 男は声を張り、拳で強く格子を叩いた。暴力的な金属の音に、スイの体がびくりと跳ねる。


「ちょ、ちょっとロイド、落ち着いて! こんな子供を詰めたって何も出てきやしないって言っただろ!?」


 殺気すら見せる男の気迫を、キオが慌てて制する。


「僕は最初から収容に反対したのに!」

「あんな辺鄙な場所で、裏切者のルッソと会っていた。それだけで充分だろう。幼いから丁重に扱えと? それこそ公平性を欠く」


 ロイドと名を呼ばれた男は一切表情を動かさず、キオを横目に流し見た。


「そりゃあ君も立場があるだろうけど、そもそもルッソを殺さず連れ帰ってりゃ……あれ?」


 不意にキオが、格子の中へ視線を戻す。


 ひっ、ひっ、と小さな吐息が響いていた。

 スイは肩を戦慄かせて啜り泣き、そして失禁していた。

 無様な姿が男たちの神経を逆撫でしたら、と思うのに喉が引き攣るのを止められない。


 居場所を失い、家族を失い、身体を酷使した末に気を失い、昏睡から目が覚め見知らぬ場所で恫喝を受ける。

 ずっと張り詰めていた心の糸は、男が格子を殴った大音を引き金にプツリと切れた。

 抑えの無くなった体から温かな液体が出ていく。足の付け根を温めながら、濡れた敷布の色が変わっていくのを、スイは身震いしながら見ていた。


「うっ、あ、あ」


 人前での粗相を恥じる気力もない。手元の敷布を握りしめて、スイは吶吃した。

 彼らは新人種であると、スイは確信していた。ひとまわり大きな体に、日焼けした色の濃い肌と髪。アルマから聞いていた特徴と同じだ。

 自分も同じ目に遭うのだ。父と母のように。スイが村に置いてきた仲間たちのように。


「あ~、あらら……ロイドがいじめるから」

「……知ったことか」

「大丈夫? すぐ替えの服を持ってくるよ。起きたなら薬もついでに、……」


 宥めるように話しかけていたキオが、つと言葉を切る。不審そうに眉を寄せて、鼻を鳴らし何かを探る。


「ロイド、何か匂わない?」

「そいつの出したモノだろう」

「いや違う。もっとずっといい香り。何だこれ、……」


 キオはそわそわと匂いの出所を探している。ロイドはキオを怪訝な目で見た。


「お前の趣味はどうでもいい。本題から話を逸らすな」


 ロイドが振るまいを諫めようとした時、キオは崩れるように膝を地についた。突然の異変に、スイも涙を止めて目を剥く。


「キオ!? どうした!」

「あ、熱い……頭が溶けそう、何、これ」


 うずくまったキオが、激しくかぶりを振る。内側で何が暴れているのか、引っ掻き傷がつくのも構わず胸元をかきむしった。

 ギラリと、キオの獣のような瞳がスイを射貫く。息の根を止めんとする鋭さに、スイは喉奥で悲鳴を上げた。思わず尻で後ずさったが、すぐに背中が冷たい石壁が当たる。


「う、ああ、ううぅ……!」


 キオはよろよろと格子へすがりつき、スイの方へ腕を伸ばした。格子に阻まれ届きはしないが、腕を大きく暴れさせ明らかにスイを捕らえようとしている。ロイドが引きはがそうとするも、とてつもない腕力で格子にかじりついている。


「……お前が何かやったのか」

「え……?」


 ロイドの怒りと驚愕の眼差しに睨まれ、スイは狼狽した。


「キオに何をした」

「な、なにも、僕は何もっ……」


 そうしている間にも、キオの正気は更に失われていく。目は血走り頬は紅潮している。呼吸を荒げて唾液を垂らし、ついには格子に額を打ち付け始めた。


「キオ!」


 ロイドは舌打ちすると、渾身の力でキオを担ぎ上げた。なおも暴れる長身の痩躯を、膂力りょりょくで抑え込む。


「必ず全て吐かせる。決して逃げられやしない」


 地を這う低音は、見えない牙となってスイの喉元に刺さった。鋭利な一瞥を残し、ロイドがその場から去る。足早な靴音が遠のいた後、ガシャン、という音とともにその場から一切の気配が消えた。


 スイはしばらく、呼吸を忘れていた。苦しい、と気付いた喉が慌てて開き、ひっくり返ったように激しく咳込む。心臓は、けたたましく鼓動していた。

 粗相をして濡れた下半身が冷える。熱くて怠くて、頭痛もやむ気配がない。

 体のあちこちの傷が、思い出したように痛みだす。何もかもが、スイの思考力を奪い追い詰めていく。


 スイは細くしゃくりあげて泣いた。

 きっと自分はここで死ぬ。たった独りぼっちで。


(アルマ、ごめんね)


 生きろと託されたのに、応えられそうにない。

 

 苦しく痛い思いが続くくらいなら、目覚めたくない。眠っている間に全てが終わっていますように。

 繰り返される死の恐怖に耐えきれず、スイは自ら瞼を閉じた。

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