10. 地上 2
ギイ、と蝶番の軋む音が、深く沈んでいたスイを浮上させる。上下左右が分からず不安定で、ひどく気分が悪かった。
「お前は誰だ」
低いがなりに、瞼をこじ開ける。関節という関節が固まり、頭痛に視界が歪む。
小さく火が爆ぜる音、炭の匂い、体温で温まった床。嫌になるほど寒気がするのに、体の芯が熱い。五感の拾う情報が、麻痺した頭に流れ込んでくる。
(そうだ、昨日、村が)
懸命に記憶を辿り始めたスイは、しかし現状を把握する間もなく胸倉を掴まれた。
凄まじい力で引きずり起こされ、強かに背を壁にぶつけられる。
「何者だ! 聞いてた奴と違う!」
「っぁ……!」
見知らぬ男は青い形相で、脱力した体を床に叩きつけた。あちこちの骨が砕かれたような衝撃に、スイは声もあげられなかった。
床に額を擦った弾みで、石で切った傷のかさぶたが破れた。溢れた鮮血が目に入って、相手の顔が見えない。
「クソ! 殺されてたまるか! 俺は、俺はこの金で成りあがるんだ……!」
取り乱した男は興奮のままに喚き、横倒れたスイに馬乗りになった。
脂ぎった大きな手が、スイのか細い首にかかる。
覚えのない言葉が耳の上を素通りする。衰弱した心身ではろくな抗いも叶わず、スイは喉元に食い込む指を受け入れるしかなかった。
呼吸の通り道を圧され、スイの口がはくはくと戦慄く。首の骨を折られると直感したが、男の握力が不意に弱まった。
「かひゅっ……!」
解放された器官から大量の空気が肺に流れ込み、スイは大きく咳こんだ。
「なんだ、この、匂い……頭が……!」
男は頭を抱えて呻いていた。
硬直していた全身に血が巡り、霞んでいた目の前がやっと明瞭になる。
(に、逃げなきゃ)
スイは男の下から這い出ようとしたが、すぐに腕を捕らえられた。
「ああ……これ、これだ……!」
「ひっ……!」
男は息を荒げ、ぎょろりと血走った眼球のまま臭い顔を近づけると、スイの額を舐め始めた。
血の滲む傷に舌を押しつけ、じゅるじゅる音をたてて啜る。傷口をほじられ、じくじくと疼痛が走った。
「や、やだ、やめて! 嫌だ!」
全身の毛穴が逆立つ。耐えがたい不快感にスイは男を蹴り上げたが、萎えた足では抵抗らしい抵抗にもならない。
「あああ……ああ……」
湿った呼吸で喘ぎながら、男はスイを舐めまわす。額の血を全て
それでも満足できないのか、ついにはスイの衣服を胸元から引きちぎった。力任せに引っ張られた外套から留め具が弾け飛び、生地が破れる。
「あ、あ……!」
アルマに託された上着。己が地底にいたと証明する、最後の繋がり。
限界まで張り詰めていたスイの心に、ぷつりと穴があく。
「うっ、う……! お願い、やめ……」
無遠慮な舌は、露わになった鎖骨を蹂躙する。泣き叫んで許しを乞うても、虚しくから回る。
「アルマ……」
帰りたいと思った。
これは夢だ。すぐに会える。
不意に鉄くさい匂いがしたと思うと、男が動きを止めた。全体重でぐったりとのしかかり、ぴくぴくと不規則に引き攣れている。
「お前は誰だ」
その声は、冷たく澄んだ音となってスイの元へ届く。この男も同じ問いをぶつけてきたが、それとは全く別物のように聞こえた。
上に乗ったまま動かなくなった男の肩越しに見上げると、竈の火に照らされ、鋭く鮮やかな青い瞳がこちらを見据えていた。
(きれい)
美しい色だった。
(夢みたいにきれい)
場違いな感想を抱く。心身ともに摩耗しきったスイに、恐怖心は湧かなかった。
やっぱり夢だ。きっとそのうち覚める。
スイは寝かしつけられるようにとろりと瞼を閉じて、目の前の世界から逃げ出した。
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