2章
9. 地上 1
叫び続け、枯れ果てた喉が痛い。
さっきまで、すぐそこに、いつも通りの日常があったのに。穴を塞ぐたった一枚の木板が、世界を切り離した。
ふざけすぎたと、アルマが苦笑交じりに謝って引き上げてくれる。そんな虚しい期待が脳裏を掠める。
夕食の準備ができたと、メイアが呼びに来る。その後は眠って、起きて、朝食を食べて、穴を掘って、また水脈が見つからなかったと落胆する。決まり切った毎日を、これからも過ごすはずだった。
行く手を阻む忌々しい木板に抗い続けたスイの手は皮が剥けて血が滲み、爪も割れていた。
泣き疲れ、岩の壁にうなだれる。頭に登った血が引くと、手足の先が冷えてくる。スイはようやく、傷だらけになった手の痛みを感じ始めた。
下唇を噛む。強く瞼を瞑ると、瞳に張った涙が一息に追い出された。濡れた頬をがしがしと拭って、深く息を吸った。
――スイの足ならできる
アルマが、そう言ってくれた。
(行かなきゃ。上へ)
闇穴の中、スイは手探りで壁を辿る。アルマの掘った穴は、上へ向かって緩やかに傾斜していた。震えて萎える膝を𠮟りつけ、空間の続く方へひたすらに這い進む。
暗闇の中、孤独感に再び涙が滲む。泣いている場合ではないのに、どうしても止められない。
延々続く道のりに、このまま闇に囚われるのではないかと気が狂いそうになった頃、スイのつむじに何か当たった。触れるとその触感はざらりと柔らかく、明らかに岩や土といった類ではない。
スイの意識が、水を打ったように冴える。
重いが、動かせそうだ。息を詰めて上へ押し上げると、それはドサリと音を立てて崩れた。しばらくぶりの光にスイの目が眩む。
「……月だ」
スイは穴から顔を出し、上を見たまま呆然とした。
頭上に輝くは、夜空に鎮座する真っ白な円だった。
その周りには、無数の白い点がうんと果てまで張り付いている。星だ。聞いていたけれど、こんなにたくさんあるなんて想像していなかった。
(怖い)
スイは直感的に身震いした。煌々と輝く月は、巨大な目のようだ。恐ろしくなって、見上げるのをやめる。
ぐるりと周囲を見回す。そこは壁も天井もない、どこまでも続く巨大な空間。
遠く連なる山々は、星空の裾を黒く切り取る。動くものは見当たらないのに、動物がいるのか風の仕業か、どこからか音がする。
辺りは剥きだしの岩が連なり、大きな石がいくつも転がる無骨な地形をしていた。
濡れた頬を冷えた空気が撫でる。肌が染みるほど寒い。今は冬の入口のはずだ。アルマが上着を与えた理由を、スイはよくよく理解した。
スイはひとまず穴から這い出た。いつまでも口を開けて縮こまっているわけにはいかない。
穴の出口は歪な形をした巨岩の死角にあり、アルマが拵えたのであろう、土を詰めた麻嚢で塞がれていた。
アルマがどうしてこんな穴を掘ったのか、聞く暇もなかった。
「行かなきゃ、北へ」
麻嚢で再び穴を塞ぎ、スイは改めて空を仰いだ。アルマとの予習を必死に思い出す。
星は時間とともに動くが、配置は変わらない。大きく目立つ星々を線で結び、記憶の中の星図にあてはめる。
自信はないが、進むしかない。見当つけた方向を見据え、スイは走り出した。
転がる石の上を軽々と跳ぶ。目に入る全ての未知を恐れるより先に、我武者羅に腿を上げる。
向かい風がぼうぼうとうるさく鳴る。鋭くすれ違う冷気が耳を裂く。
(まだ間に合う、きっと、急いで大人たちを見つければ)
一心不乱に駆け、スイはアルマの言っていた森へ辿り着いた。今一度星を確認し、方角を北東へ切り替える。次は川を見つけなければ。
植物も原木も馴染みあるが、こんなに群生しているところは見たことがない。凝縮された樹木の香りに、頭が眩みそうだった。竦む足に鞭を打つ。
視界を塞ぐ木々、足元を覆う草、空を隠す枝葉。
見通しが悪くなった分、進路を妨げるものが次々に姿を現わす。盛り上がった木の根に足をとられ、落ち葉が隠した窪みに転び、起伏の激しい地面で滑る。スイの肌に、いくつもの小さな傷が重なっていった。
集中するあまり、突然開けた視界にスイは一息遅れて気が付いた。よろけながら走りを止める。
「これが、川……?」
息を切らし、目の前の光景に絶句する。
下流へ向かって二つに枝別れた、大きな川。石を鳴らしながら涼やかな水音をたてて、豊かな水が無限にせせらいでいく。
自分があんなにも探し焦がれていた、村の命運を握る水が、地上ではこんなに大量に、当たり前のように流れている。
「そんな……」
そこには誰もいなかった。見渡しても人影一つない。
川まで行けば大人に会える。アルマの言葉だけを心の頼りにしていたスイは、手近な木の幹にもたれ、ずるずると地に膝をついた。
場所が悪いのだろうか。近くにいるかもしれない。もっと探せば――
(でも探すって、どこを?)
勝手に浮かぶ弱音を、木の幹に頭を打ち付けて追い出す。考える暇があるなら、動くべきだ。
何度も首を左右に振って、上流と下流を見比べる。スイは根拠なく川上に決めた。川下を選べば、二股のうちどちらに進むか更に選ばなければならない。選択の疲労から、無意識に逃げた。
冬の夜は長い。空気は冷えを強めていく。
夕食をとりそびれたから、しばらく何も食べていない。喉が乾いて川の水を一口飲んだが、体の芯から冷えたためやめた。
川辺を走って、走って、走り続けても、仲間は見つからない。
スイは進み続けた。体力が尽きても、彷徨うようにふらふらの足を踏み出す。
月はいつの間にか低くなり、木々の向こうに姿を消そうとしていた。
かじがんだ手足の感覚はとっくにない。おさまりよくまとまっていた髪は、見る影もなくふり乱れている。衣服は擦り切れ土で汚され、薄銀の瞳は焦点を失い虚ろだった。
前へ、前へ。疲弊した頭をそれだけで埋めていたスイは、足元の岩に気付くことができなかった。爪先を引っかけて躓く。受け身もとれず、顔からまともに地へ倒れた。
尖った石が額を打ったが、走ったはずの激痛は他人事のように遠い。指先一つ動かすのもおっくうでたまらなかった。
無心で動かしていた体が止まると、直視を避けていた絶望が顔を出して活き活きとせせら笑う。
どれだけ探しても無駄だ。大人には会えない。お前はこのまま地上で一人逝くんだ、と。
楽になりたい。ついに負けを認めたスイの瞼が、下りようとしていた。
世界が暗くなる寸前、アルマのくれた外套が目に入る。
――大好きだよ
最後に聞いたアルマの声。スイの心の奥底に、ぽつんと小さな火が灯る。
震える唇から、熱い嗚咽が押し出される。まだ泣けるのかと、スイは驚いた。
深い緑色の生地から、アルマの匂いがした気がした。だからスイは気付くことができた。鈍った嗅覚が、ほんの僅かな焦げくささを拾った。
「う……」
短く呻り、重い頭を持ち上げる。前方、ゆるやかに蛇行する川沿いに、何かが見えた。
それは木造の箱だった。村にあった鶏小屋を大きくしたような、人が何人も入れそうな箱。そこから、薄い煙が立っている。
あの中に入れたら、風を凌げる。
どんな危険が潜んでいるのか、冷静な判断をしようとしても、限界を迎えた肉体の悲鳴に塗り潰された。
ぎしぎしと筋肉を軋ませ、ちぎれそうな体を絞り起こす。先ほど石で切った額の傷から、血が鼻梁をつたってぽたぽたと垂れた。
朦朧として、小屋までの距離が正確に測れない。遠いようで近く、近づくほど遠のいていく。不格好に腰を曲げ、足を引きずりながら一歩を重ねる。
箱の側面には、一つだけ模様の違う板がついていた。人の背丈よりやや高いそれは、村の大門と似ていた。
体を丸ごと押しつけて体重をかけると、板は低い音をたてて内側に開いた。
中には誰もいなかった。スイの家の居間が三つは入りそうな広さだ。右手には大きな竈があり、焚口では炎が煌めいていた。
迷わず中へ滑り込む。
そこには簡易的な椅子や机、用途不明の小道具などが置かれていたが、スイの気には留まらなかった。
夜通し風に晒され続けた体は、竈に近づくと温もりに安堵しを覚えた。
手足の力が失われ、ひとりでに意識が弛緩する。倒れるスイを食い止めるものは、何もなかった。
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