5. 大転拠 2
地上を渡り別の地底へ住処を移す、それが大転拠だ。
最後に大転拠があったのは150年前で、当時の経験者は当然生き残っていない。過去の大転拠はおおむね100年ごとに行われていたというだけでも、現在がいかに豊かで恵まれていた地であったかが伺える。
断腸の決断だった。村長は最後まで別の策がないか抗っていたが、解決するより先に水が尽きてしまえば全てが崩れる。急場しのぎの延命よりも、今後の長期的な生活を選択した。
水が間もなく尽きるという話は、大人たちの間で囁かれていた。地上調査を任された先遣隊の長期不在もあり、大転拠は間近であると察していた。
しかしいざ決定を言い渡されれば、当惑するのも無理はない。途方もない不安で村は満ちていた。
「新しいところは、どんなところ?」
スイを膝に乗せたアルマは、アデレの膝の上で抱えられている。
「話に聞くと少し狭いらしいが……この村も最初は狭かったそうだ。私たちが根気よく切り拓いていけば、ここに負けないくらいの村にできるさ」
「歩いて行くの? そんなに遠いの?」
「ああ、五日かかる」
「村長が言ってたしんげつって?」
「新月は月が出ない日のことだよ」
「つき?」
「うーん、一から説明できるだろうか……」
矢次早に問われアデレが呻く。
母を気遣って胸中にしまい込んだ質問を、アルマはアデレにぶつけていた。しかしどの答えもぴんとこない。
知らないものを怖がりようがないし、本音を言えば、慣れ親しんだこの場所を離れる寂しさと悔しさの方が強い。
「おれもスイと同じ班がよかった……」
スイのつむじに顎を乗せてアルマはむくれた。
今朝村長の口から、大転拠についての更なる詳細が発表された。
転拠先へは、五日をかけて向かう。移動は夜間。暗く進みづらいが、新人種に発見されにくく、獣が眠り、女と子供は不慣れな太陽に眩まないためかえって安全と判断された。
万が一の際の全滅を避けるべく、百名弱の村人たちは五つの班に分けられた。
一日に一班ずつ、この地底を出る。アルマとメイアは二番目の班、アデレたち家族は最後の五番目の班に割り振られている。
「こればっかりは仕方ない。同じ班に小さい子供が何人もいると、大人が大変だからな。向こうに着いたらまたスイを頼むぞ、アルマ」
あやすようにアデレが膝を揺らす。スイと初めて離れる、それも何日も。アルマは不満に唇を尖らせた。
時は容赦なく経過し、あっという間に件の日がやってきた。
決行の夜に、人々が広場に集まる。各々が荷を背負い、声をかけ合っている。第一班は激励を受けながら、昨夜村を出ていった。
アルマはメイアに着せられた慣れない上着が煩わしく、襟元の紐で手持無沙汰に遊んでいた。
「二班、集合してくれ!」
二班の先導役が大きく手を掲げ、地上へ続く門の前に集まるよう指示を出す。
アルマは岩壁を見上げ、この大空洞に心中で別れを告げた。しかし、当たり前の風景に二度と戻れないという実感は、まだ湧いていない。
「スイ、またね。泣いちゃだめだよ」
集合の前に、アルマはスイの頬を撫でた。イオナに抱かれたスイは、夜を前に目がとろんと重そうだ。くすぐったがるスイに構わず頬ずりすれば、たまらなく癒された。
「向こうへ着いたら、ご褒美にたらふく美味いもの食わせてもらおう」
「アルマ、メイアの言うことをよく聞くのよ」
アデレとイオナが順に、アルマを抱き締める。
「それじゃあ、アデレたちもどうか無事で」
メイアも弟夫婦と抱き合った。大転拠を告げられたあの日と比べれば、この旅から必ず息子を守ると、メイアの眼差しは見違えるほど力強くなっていた。
絶対に離れない、大きな声を出さない、きょろきょろしない……メイアに繰り返し聞かされた注意事項を、アルマは頭の中で反芻する。
メイアと集合場所に向かう間も、アルマは何度も後ろを振り向きながら、最後までスイの姿を目に焼き付けた。
第二班の先導役が、号令とともに歩み出す。声援を背にいよいよ出発する。
大きく開け放たれた大門の先へ、メイアに手を引かれ初めて足を踏み入れた。
時に険しく、時に緩やかに曲がりくねる坂道を、足元を照らされながら登っていく。
不意に、強い冷気が肌を刺した。
「周囲異常なし、出るぞ」
先導役が指示する。ついに地上へ続く出口に到着した。
「おぶされアルマ。寒いから布をかぶせるが、怖がることはないからな」
若く体格のいい男が、アルマに命じた。メイアも頷く。
言われるがまま大きな背中に体をあずけると、頭からすっぽりと布で包まれた。視界を塞がれて戸惑うアルマの肩を、メイアがしきりにさする。
アルマを背負った男が動くと、布の下にいても空気が変わったのが分かった。息を吸うと、肺がぴりぴりと痛むほど寒い。
「すごい」
「これが外……」
アルマと同じく、女たちにとっても初めての地上だ。彼女たちの囁きにアルマが頭の布を上げようとすると、メイアが鋭く制した。
「本当に寒いの。子供を凍らせて連れていくおばけがいるから、顔を出しちゃ駄目」
急がなくても、大人になれば見れるから。そう言って、メイアは念押しに布をかぶせ直した。
「……おばけなんていないもん」
アルマは強がったが、自信はなかった。確かに、こんなに寒い思いはしたことがない。口から白い煙が出てくるところは初めて見た。親の言うことを聞くふりをして、アルマは目の前の背中にしがみついた。
アルマに外を見せない。広大な地上の世界に触れさせて混乱を招けば、隠密を要するこの旅に支障が出る。アルマに布をかぶせることは、班の大人たちで話し合って出した結論だった。
布の中の孤独感も、おぶわれる背中の温かさにやがて消された。メイアがずっと声をかけてくれるし、誰かがかわるがわる寝物語を聞かせるので、心地よい揺れの中、気が付けばアルマは眠りについていた。
目を覚ますと、洞窟にいた。村に比べるとうんと狭いが、班員たちが並んで休むには充分な広さだった。
ここは、先遣班が決定した中継地のうちの一つである。夜の間に次の中継地点まで移動し、日中はそこで休む。
洞窟には、第一班が残した資材や寝床があった。アルマたち第二班も同様に、後続の第三班へ残していく。
洞穴は深く入口が遠いため、アルマのいる所から外の様子を伺うことはできない。
女たちは火を起こし、食事を支度し、環境を整える。男たちは外へ出て、必要なものを取ってくる。村と同じだ。岩に囲まれた光景も、形が違うだけで見慣れたものだ。
大人たちの目の届かないところへ行くことは禁じられたが、同じ班の12歳の女の子が遊び相手になってくれ、アルマはさほど退屈せずに済んだ。
そうしているうちに夜になった。アルマは再び布をかぶっておぶわれ、そのうち眠る。日が昇れば、次の中継地点の洞穴で息をひそめて夜を待つ。
行程の後半にはすっかり慣れが出て、アルマは怯えることもなくなった。
おかげでスイを焦がれるだけの心に余裕ができる。スイは、怖がって泣いてやしないだろうか。自分のようにずっとおぶわれて、何一つ辛いことがなければいいのに。
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