23. ノア 2
男がスイを連れて来たのは、敷地の北側だった。開けて平らな南側とは異なり小川や林があり、全く別の場所かのように人の気配が遠い。
西日が建物の陰を伸ばし、石造りの道を覆ってくれているのは幸いだった。スイは男の数歩後ろを、控え目について歩いた。
「この拠点はどこも暑苦しいけど、ここは落ち着いていて嫌いではないよ」
男は涼やかに笑い、スイを振り返った。
水がささやかにせせらぐ音や、風に揺れる葉のさざめき。男の言う通り、静かに心を休ませるには良さそうだとスイは思った。
「見てごらんスイ、コノレだよ」
初めて来る場所を見渡すスイを、男が手招きする。男は生垣の前にしゃがみ、何かを覗いていた。そろそろと横に腰を下ろす。
「ほら、立派に花が咲いている。ティダモニアは武力ばかりでなく、もう少し美的感覚を磨いてもいいんじゃないかと思うけれど、コノレを植える感性は悪くない」
男がそっと撫でるのは、生垣の中に開く花だった。爪ほどの薄紫の花弁が、無数に群れて大きな塊のようになっている。小さい花弁に細かく走る筋は緻密で、しかし全体を見れば迫力すらあった。
花といえば、男たちが地上で摘んできたものしかスイは知らない。根を張り今まさに生きている花を、スイは食い入るように見つめた。
「きれい」
「コノレが好きなのかい?」
「あ、その……見たことがなくて……病気で外に出なかったから」
慣れない嘘に、どうしても口がまごつく。
「真冬に実をつける珍しい植物だよ。普通はとても苦いのだけれど、人の手で厳密に管理して育てた実はとても甘くなる。コノレで作った酒は、冬を生き抜く強さにあやかって、逞しい大人になるようにと成人祝いに選ばれることも多い。高価だけれどね」
花の生き方に人生を重ね、意味を見出す。
村では、新生児の産着の素材は麻製と決まっていた。成長の早い麻のように、健康に育ちますようにと。地上にも近しい風習があるのだ。
「スイはいくつ?」
「じゅう、なな」
「驚いた、成人してるんだな。酒を飲んだことは?」
「ない、と思う……」
村では、水か松葉茶くらいしか飲んでいなかった。サケとは飲み物なのか。
「では、今度コノレ酒を贈ろう。口実と言っては何だが、確か来月成人して、入団試験を受ける者がいるだろう。厳しい副団長様も、入団祝いと言えば収賄を受け付けてくれるだろうから」
(来月の入団試験って、キリヤのこと?)
地上の成人は、16歳からだと聞いた。キリヤは15歳で来月試験だと言っていたから、同時に16歳を迎えるということなのだろう。
「コノレの花は美しい。私は華やかで派手な物よりも、こうした慎ましく楚々としている物の方が好みだ。スイのように」
花を撫でていた男の手が、スイの手にそっと重ねられる。スイはびくりと反射で腕を引こうとしたが、しっかりと掴まれてしまった。
今更ながら、男の目が榛色であることを知る。じっと見据えられ、胸の内が騒いだ。
「……あの、」
「君は本当は、何者?」
問いに、全身がぎくりと止まった。
「君にとても興味が湧いた。君の隠し事を暴いて、もっと君のことが知りたい」
固まったままのスイの手を持ち上げ、男が指の関節に口づけを落とした。ちゅっ、と軽やかな音が鳴る。
「……スイ、何か甘い物でも食べた?」
「え……?」
手に唇を寄せたまま、男が奇妙に目を見開く。動転するスイが答えあぐねるより先に、酷く低い声がその場を切り裂いた。
「何をしている」
こちらを睨むロイドと息を切らしたキオが、いつの間にかスイたちの後方に立っていた。
「これは副団長殿。約束の時間まで暇があったので、少し散歩をね」
男はスイの手を握ったまま、場違いなほどにこやかに返答した。
「……スイ」
ロイドに呼ばれ、スイはハッとして立ち上がった。男は、今度はあっさり離してくれた。
逃げるように駆けてロイドの背中の後ろに隠れたところで、キオが「大丈夫だった?」と小声で囁きかける。
「可愛らしい新顔がいたので、挨拶をしていたんだ」
男が悪びれなく言う。
「お気遣い感謝する。お父上はご到着になった。卿も応接室へお戻りになるといい」
「そう、父がまた手間をかけたようだね。では部屋で待たせてもらうよ」
ロイドの冷淡な語気に、男は全く怯まない。男は優美な仕草で、服の裾についた土埃を軽くはらう。
「私はノア・オーウェン・カルバロ・クラヴィッツ。また会おう、スイ」
ロイドには一瞥もくれず、柔らかな笑みをスイに向け、男は管理舎の方へ去って行った。
思い返せば、ずっと気を張っていて嵐のような時間だった。その分、今この沈黙がスイの肌に痛い。
「……あの場から動くなと言ったはずだが」
男の姿が完全に視界から消えた頃を見計らい、ロイドが射貫くように言った。スイの肩が跳ねる。
「……ごめんなさい」
待っていろ、という言いつけを守らなかったのは事実だ。スイは細い声で謝るしかない。
「ロイド、怖いよ……おおかた彼が連れ回したんじゃない? スイが一人でふらふらするとは思えないし」
小さくなったスイを見かね、キオが口を挟む。ロイドは物言いたげにふた呼吸分ほど黙り込んだが、長いため息をつくだけだった。
「……何もされなかったか」
「……うん」
見上げたロイドの瞳に、先ほどの険しさはもうなかった。ロイドが迎えに来てくれた安堵で、どっと全身の力が抜ける。
「何があった」
「あそこで待ってたらあの人が来て、それで……散歩に付き合ってくれって……」
ああ、と声をあげてキオが天を仰いだ。
「ごめん、僕たまたま医務室を留守にしててさ。呼びに来た団員に探させちゃったんだよね。行ったら言われた場所にいなくて、肝を冷やしたよ」
キオによれば、消えたスイを大慌てで探しているうちに所用から戻ったロイドと合流し、二人がかりで捜索したのだという。
「何か話したのか」
「えっと、コノレのこと、教えてもらったり……」
「日向には出たか」
「で、出てない」
「手に触れられていたな」
「僕のことを知りたい、って。あと……何か隠してるって、知られた、かも」
自分が嘘をつくのが下手だったから、勘付かれた。そのせいで、忙しいロイドの面倒をきっと増やしてしまった。
「ううん、目を付けられちゃったか……厄介なことになりそうだなあ」
キオのため息が身に刺さる。ロイドも渋い顔をしている。
「今後、卿とは顔を合わせん方がいいだろう。彼は定期的にここへ来る。その日は部屋から出るな」
「……わかった」
スイは頷いた。
太陽は傾き、辺りが橙に染まっていく。初めて出会う夕焼け空を、俯いたスイは見ることができなかった。
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