22. ノア 1
スイが部屋を出る条件は、ロイドの同伴が必須になる。もし逃げれば必ず追い、次は自由など与えないと苦い顔のロイドに脅されなくとも、スイに抜け出す気は無かった。
外の世界を知らないスイには、何が不自由かも分かっていない。枷も鍵も無いだけロイドの配慮を感じられたし、不満らしい不満も浮かばない。それよりも、ロイドの信頼を失う方が嫌だった。
ロイドは多忙なのだと、キオが診察の時にこっそり教えてくれた。拠点の責任者である上に、このひと月でスイに時間を割いた皺寄せを、片っ端から消化しているところだという。
だからスイは、部屋を出たいと自分からは言わなかった。制約は徐々に緩和させるという話なので、気長に構えることにした。
スイが次に部屋を出たのは、食堂に行った日の二日後だった。少しずつ外に慣れさせると、ロイドからの提案だった。
時刻は昼を過ぎ、夕刻が近づいている。今日も空は晴れ渡っていた。スイはぼうっと、上を見上げた。
「まだ空が気になるか」
ロイドが問うと、スイは空を見たまま頷いた。
「うん……やっぱりすごく広くて、きれいだなって」
スイとロイドは、宿舎と中央舎を結ぶ渡り廊下にいた。キオの予想通り、日陰にいる間はスイは日焼けも目の痛みも起こさなかった。
「副団長」
屋根の下をおおむね一周し、そろそろ部屋へ戻ろうかという頃、若い団員がロイドへと駆け寄ってきた。
「どうした」
「すみません、少しお話が……」
気になるのか、団員はこちらに視線を泳がせた。いたたまれず、気配を消すようにスイは二歩、三歩と後ずさった。
「実は、ラトエラ公爵が……」
「何? 予定まで一刻早いだろう」
「それが……」
団員の耳打ちは、スイには届かない。明るい話題でないことは、険しくなったロイドの表情で察しがついた。
手持無沙汰に、スイは再び空を見上げた。いつまでも飽きない。見れば見るほど、ロイドの瞳と同じ色だ。
「スイ」
話を終えたロイドが呼んだ。
「所用ができた。部屋まで送りたいが急を要する。キオを呼ばせるから、ここで待っていろ」
ロイドはこれからどこかへ行くらしい。スイは首を振って部屋のある管理舎を指した。
「一人で帰れる、と思う……あそこだよね?」
「単独行動は許可できん。いいか、くれぐれもキオが来るまでここから動くな」
目的地は見えているのだから迷いようもないのだけれど、ロイドはスイの申し出を却下した。団員に、医務室にいるキオを連れて来いと命じる。団員は歯切れのよい返事を返し、すぐに駆け出した。
「すぐに戻る。部屋で待っていろ」
そう残し、ロイドも開けた訓練場の向こうへ足早に去って行った。急を要するようだ。
ぽつんと一人取り残され、スイは渡り廊下で佇んだ。
キオが来るまでの辛抱だが、心細くて仕方がない。今日も、すれ違う団員たちからは物珍しげに視線を向けられた。また誰かが来たら、一人であの眼差しに耐えられるだろうか。
「見ない顔だね」
俯いていたところに不意に声をかけられ、スイははっと顔を上げた。キオの声ではない。
見ると、渡り廊下の少し先に男が一人立っていた。
男は健康的ながらすらりと均衡のとれた細身をしており、衣服には細やかな装飾がついている。ティダモニアの団員たちのような、勇ましい肉体とは風貌が明らかに異なる。
蜂蜜色の髪には艶があり、風に合わせて形よくなびく。スイよりは日に焼けているけれど、団員たちと比較すれば色白な方だ。ユールと同じか、もう少し年嵩に見えた。
(「おうじさま」みたいだ)
絵本に載っていた絵の一つを、スイは思い出した。あの絵の彼も、綺麗な服を着て金色の髪をしていた。
国を治める「王」の息子をそう呼ぶのだと、ロイドが教えてくれた。絵本に出てくるほど良いものではないと、その時ロイドは呟いていた。
「君、名前は? 何をしているの?」
「え、あ……スイ、……マケラ」
男の微笑みつられ、スイは答えた。覚えたての姓を、最後に付け足す。
「最近入った団員かい? それにしては泥臭くないな」
「えっと……そうじゃない、けど……」
すっきりとした容貌の男は、ロイドほどの迫力はない。けれど、笑みのまま詰めてくる歩には確かな圧力があった。
「私のことを知らないのか、じゃあこのあたりの子ではないな」
近くまで来ると男は腰を折り、スイの顔を覗き込んだ。
「どこから来たの?」
嫌な部分を突かれ、スイの心臓が跳ねた。逃げ出したくなるのを、ぐっと踏みとどまる。
大丈夫だ。まさか地底人だなんて分かるわけがない。
「それは言っちゃいけない、って……」
「どうして?」
「貴族、だから」
スイは必死に、ロイドが決めた「嘘の自分」の情報を引っ張り出す。
「貴族? マケラなんて貴族、聞いたことがないな」
「それは……仮で、家は隠しなさいって、……お、お父さんが」
「隠す?」
「ずっと病気だったから……その、外のことをここで勉強しなさいって、他の人と一緒に、って……」
「へぇ」
たどたどしい説明に納得したのかしていないのか、男は無味な返事を返した。
(キオ、早く来て……)
これ以上、上手く取り繕える気がしなかった。このままでは怪しまれる、と血の気の引いたスイの手を、男がやおら掬いあげた。
「ここで待ち合わせをしているんだけれど、早く来すぎてね。退屈していたんだ。少し付き合ってくれるかな」
男はそのまま手を引いてどこかへ連れて行こうとするので、スイは狼狽した。
「あっ……でも、あの僕、部屋に戻らないと」
「時間があるからこんな所でぼうっとしていたんだろう? あとで部屋まで送ってあげるよ。まさか君みたいなのが宿舎で寝泊りしてるなんてことはないよね? 客室を借りているのかな」
「いや、えっと、ロイドの部屋で……」
男がぴたりと動きを止めた。見開いた目を向けられ、何か口を滑らせたかとスイに緊張が走る。
「ロイドって、君、彼の部屋で過ごしてるの?」
「う、うん」
男はスイの頭からつま先までまじまじと見定めた。それでどう評価したのか知らないが、彼はまた柔らかな笑みを浮かべた。
「大丈夫、別にとって食いはしない。散歩中の話し相手になって欲しいだけだよ。ロイド・マクグラスが怖いのなら、私から言っておくから」
男が手を握る力を強める。
ロイドを姓まで含めて呼び捨てにする人物を、スイは初めて見た。彼はロイドと親しい間柄なのかもしれない。例えば、キオのように。
(ロイドと仲がいい人なら、大丈夫なのかな)
一抹の心配を拭い切れず、しかし断るための言い訳も思いつかず、結局スイは男のなすがまま手を引かれて行った。
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