18. 解放
この部屋に来てから十四日。強引な搾精から五日。あれ以降、体液を求められなくなった。ロイドに聞いても、今は必要ないと短く答えるだけだった。
日に三度の食事のたび、ロイドに字を教わることは変わらず続いている。スイは読める端から、絵本に載っている言葉を覚えていった。
アルマとの予習の最終的な目的は、主に命を守ることだった。危険なものに無闇に近づかぬよう、命を脅かすものを学習する。恐怖が悪戯に増すばかりで、予習の時間は少し憂鬱だった。
けれど、今の勉強は違う。ただ字を学び、物の名前を身に着ける。単純に知識が増えていく感覚に、達成感さえあった。
ロイドは忙しい立場のようで、スイに割く時間は食事のたびに四半刻と少しだけ。内心ではもっと居て欲しいのだけれど、生かされている身で頼むことはできない。
たまに来るキオも長居はしないし、スイは持て余す一人の時間を、字の反復に費やした。絵本だけではあきたらず、あの文字だらけの本を棚から引っ張り出し、読めるものを探す。言葉の意味は分からないまま、音だけを追い続けた。
その日の夕食、スイは新たに覚えた単語をロイドに披露するつもりだった。しかしスイが本を開くより先に、布包みを差し出した。
「返すのが遅くなった」
中身の見えぬそれを受け取り包みを開くと、深緑色の生地が現れた。
「あ……」
「外れていた
包みの中には、アルマがスイを村から出す時に着せたマントが入っていた。見たことがないほど綺麗に洗われ、どんな石鹸を使ったのか手触りも良い。
すっかり諦めていた。手元に返ってくるなんて。
「あ、っありが、あり……」
礼は、喉がつかえて出てこなかった。涙が落ち、深緑の布地にまだらに色をつける。
「う、ひっ、ひっ……!」
スイはついにマントへ顔をうずめて泣いた。嗚咽に引き攣る小さな肩を、ロイドがそっと撫でる。
アルマの香りはしなかった。村の匂いも、地底の匂いも残っていない。
でも生きていた。彼らは生きていたのだ。アルマに託され、自分の命はここにいる。
地上へ出てひと月と経っていないのに、思い出は遠く不安定になっていた。激しく変化する環境に置き去られ、霞の彼方に消えかけていた景色たちがここで息を吹き返す。
「お前への嫌疑は晴れた」
すすり泣くスイに、ロイドが告げる。
「まだいくつか条件はあるが。お前は外へ出られる」
スイはぐしゃぐしゃの顔を上げた。涙で目元に張りついた前髪を、ロイドが指先で軽くよける。
「……僕、外に出るの?」
「ああ」
「どこかへ行くの?」
「いいや、引き続きこの部屋で過ごしてもらうが、足枷は外す。お前は表向き、このティダモニアへ遊学に来た貴族の縁戚ということになる」
「条件、って?」
「常に俺の管理下にはいてもらう。行動範囲は徐々に広げる。他の団員たちと関わる機会が増えるだろう。人前で不用意に体液を出すことを禁じる。俺を除き、人が狂う理由はお前の体液であると、おおむね結論が出た。原理は未だ不明だが」
やはり、キオを豹変させた原因は自分にあるらしい。謎の現象に畏怖は湧いたけれど、放り出されなくて良かったとスイは胸を撫でおろした。
この地上に、スイの行き場はどこにもない。どうしてかロイドだけが、スイと共に居てもおかしくならない。ロイドの側が一番安全なのだ。
「何か望みはあるか」
唐突な問いにスイは首を傾げた。
「冤罪で捕らえた、せめてもの償いだ。可能な範囲で、願いを叶える心算はある」
悩み、たっぷり考える。
「……村に、行きたい」
「村?」
「僕がいた村。もう誰も、いないだろうけど。もう一度だけ、帰りたい」
地上から忘れ去られた旧人種たち。彼らが生きていたことを覚えているのは、自分しか残っていない。目をそらさず、きちんと弔ってやりたい。
「村の場所は分かるか」
「ううん……でも、あの川沿いの小屋から川下に行けば、思い出せるかも」
「……分かった。まだ先になるだろうが、必ず連れて行こう」
力強い言葉に、止まっていたスイの涙が再び零れた。ありがとう、と今度ははっきり言うことができた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます