3章

19. あの蒼天

 ティダモニアはエアネスタ国内最大の民間軍事組織であり、その歴史は長い。

 発足は500年前に遡る。当時破竹の勢いで国力を伸ばしていたエアネスタは、領土拡大を狙い北のサズニ大山脈辺境の小国アーダマールに目をつけた。


 圧倒的軍事力を誇るエアネスタに対し、開戦も降伏もせず協議協定により無血の和解を治めたのは、後にも先にもアーダマールただ一国のみである。

 理性的な姿勢が評価され、アーダマールはエアネスタより30年間の自治権を与えられた。

 アーダマールは王国から自治領となり、王は自治領主へと名を変えた。王の英断により、アーダマールの人、土地、文化は守られたのだ。


 解体されたアーダマール国軍に代わり、自治領主主導のもと設立されたのがティダモニアだ。

 エアネスタへの反逆と見なされぬよう私設の自警団とし、決定権を民間に託し、政治的関与を避けつつも私財からの支援を惜しまなかった。


 領土にしたとはいえ、山に囲まれた国境区域にはエアネスタも充分な手を割けない。

 代わりにティダモニアが、市中警邏や災害対応、領民の保護や援助など、社会の安定を維持する役割を担った。


 民に貢献し続けた自治領主は皆に愛され続け、約束の30年後にその地位を下りた。

 私欲や権力に固執せず、常に冷静な選択ができる。創立者である、強く優しき自治領主の意志が、ティダモニアの組織理念の根底にある。


 アーダマール没後もティダモニアは活動範囲を広げ、エアネスタ国民の支持を確実に得ていった。

 ティダモニアに国内の治安を任せれば、国の軍事力を国外へ集中させることができる。

 利点に気付いたエアネスタは、保持する武力量にいくらかの制限をつけ、保安活動を正式にティダモニアへ委託する形をとった。

 500年が経った今も、エアネスタとティダモニアの契約は続いている。


 ティダモニアは現在、国内に十の拠点と三十三の支所を有する巨大組織にまで成長した。

 その拠点の一つが、ここクリダラの街にある。商業で賑わう中心部から少し外れた、静かな丘の上。めったに雨の降らないこの街の空は、今日も朝から快晴だった。


「親元の意向により身元は伏せるが、さる貴族の縁者を預かることとなった。長らく病に伏せっていたが回復したため、社会学習の一環として、このティダモニアへ遊学の名目でしばらく滞在する」


 よく通るロイドの声が講堂に響く。全体朝礼で集まった団員たちは、背筋の伸びた起立姿勢で一糸乱れず整列している。

 無言の彼らの眼差しには、驚き、訝しみ、好奇心、さまざまな感情が含まれていた。前に立つ上官ではなく、その横にいる白い少年に対して。


(ここにいる人たち、みんな新人種……?)


 ずらりと並ぶ逞しく大きな男たちを前に、スイは圧倒されていた。

 こんなにたくさんの人を見たことがない。あちこちから刺さる視線を受け止めきれず、スイは顔を伏せた。半歩だけ後ずさり、そっとロイドの影に隠れる。


 外へ出られると宣言され、スイの足枷が外されたのは昨日のことだ。猜疑が晴れ軟禁状態も解かれたが、条件つきでロイドの監視下におかれていることは変わらない。

 逃げようと思えば逃げ出せる。逃げる宛も生きる術もないスイは、どちらにせよここへ留まるしかないけれど。


 スイが地底人であることや、地下牢に収容されていたことは機密事項扱いとなる。

 いずれ露呈するスイの無知や、目を引く色素の薄さにそれなりの説得力を持たせるため、病により何年も寝たきりだった貴族、という後付けをロイドが考案した。

 貴族とは血縁者で構成される集団で、王族や一部の官職に次ぐ地位を持ち、平民とは一線を画す、とスイは教わった。

 地位の仕組みそのものがスイには理解できなかったが、上の位とは他者に心理的に距離を持たせ、不躾な悪意から身を守るのに役立つのだと言う。


 姓を隠し出身を明らかにしないのは、階級を超えて市井の生活を身近に学ぶため。ロイドの部屋の一室に住まうのは、安心と安全を保証するため。

 もし他に不都合なことを聞かれたら、病のせいにするか、親に聞かなければ分からないと答えろ。くれぐれも余計なことは漏らすな。

 ロイドに何度も注意されたことを、スイは胸に刻んだ。


「責任者として、俺が面倒を見ることになる。皆もあまり立場を気にせず接するように。では、挨拶を」


 スイはぎこちなく顔を上げた。無意識に握りしめていた袖の裾を急いで離す。


「……スイ・マケラ、です。マケラは仮の姓、です。よろしくお願い、します」


 昨日ロイドと延々と練習したはずなのに、慣れぬ言葉遣いに舌がもつれた。

 地上では、相手が親しい間柄かそうでないかで話し方を変える。なんて厄介な文化なのかと、スイは練習中に幾度も心が折れそうになった。


「では、解散」


 ロイドが鋭く号令をかけると、団員たちは散り散りになる。スイはまた目線を下げてロイドの影に隠れていたが、団員たちが物珍し気な表情を向けてくるのは視界の端で捉えていた。心臓が口から出ないよう、唇を強く引き結ぶ。


「ついて来い」


 団員たちがあらかた退室すると、ロイドはスイに指示した。この後、敷地内を案内する段取りになっている。

 一歩が大きいロイドに追いつくため、スイは小走りで追いかけた。


「あ、あの……変じゃなかった?」

「何がだ」

「挨拶……上手くできなくて」


 あんな短い文言すら、滑らかに言えなかった。せっかく特訓に付き合ってもらったのに、あの出来で不甲斐なかい。


「そう気負うな。悪くはなかった」


 ロイドの口調は端的だ。けれどそのたった二言で、沈んだスイの気分が持ち直されていく。

 ロイドが歩調を緩めてくれたので、スイはもう小走りしなくても済んだ。



 200人を超える団員を抱えるだけあり、拠点の敷地は広かった。ロイドにまず案内されたのは、敷地の南側を占める屋外の訓練場だ。外に出たスイの口から、思わず感嘆の溜息が漏れる。


「わあ……!」


 眼前に広がるのは、どこまでも澄んだ途方もない青。クリダラ名物の快晴だった。


「西側の三階建てが団員が住まう宿舎だ。東側の建物が管理舎、その間をつなぐのが……どうした」


 ロイドを怪訝に振り返らせるほど、スイは呼吸も忘れて空を見つめる。


「……きれい」


 地上の全てを塗りつぶしても余りある、無限の青。あそこに溶ければ、自分のちっぽけな体なんて一瞬で消え潰れるに違いない。

 ロイドに肩を揺さぶられるまで、スイは連綿と続く群青に呑まれていた。


「あっ、あ、……ごめん」

 はっと我に返る。

「何かあったのか」 

「……空が」

「空?」

「あっ」


 要領を得ず眉を上げるロイドの顔を見て、スイは反射的に声をあげた。


「ロイドと一緒だ」


 ロイドの眉間の皺が更に深くなる。

 今まさに圧倒されているこの色に、スイはよく覚えがあった。


「やっぱり、ロイドの目と一緒。きれい」


 ロイドはスイよりも頭一つ分以上上背が高い。見上げればロイドの頭の後ろに空が並び、見比べるには丁度よかった。

 ロイドの瞳は、この晴天と同じ鮮やかな空色だ。


 多分に省かれたスイの突拍子のない文脈を、ロイドは何とか紐解いたようだ。しかめていた顔の力を抜く。


「空は初めてか」

「村から出た時に、夜の空は見たけど……月が怖かった。昼は初めて。聞いてはいたけど、こんなにずっと青いなんて知らなかった。毎日青いの? どうして青いの?」


 絶景に魅せられ、興奮が収まらない。


「なぜ青い、か……考えたこともないな」

「ほんとに? こんなにきれいなのに?」

「俺は空を……美しいと思ったことはない」


 それまで平板だったロイドの声色が、僅かに固くなった。表情は凪いでいるけれど、その目はスイの向こう、遠く虚空に向けられているようだった。

 どうしてか、スイは焦燥にかられた。ロイドの気を引きたくて、咄嗟にわざとらしく声を張る。


「ね、あれが太陽? 月よりずっと明るいね」


 スイは太陽を指さした。青の中に浮かぶ白い輝き。初めての太陽は眩しすぎて、輪郭を捉えようとすればするほど強烈な白にぼやけて滲んだ。


「おい、あまり直視するな」


 ロイドが止めるのと、スイの眼の奥にチリッと痛みが走ったのはほぼ同時だった。


「あれ」

「どうした」


 目を抑えてふらついたスイの肩を、ロイドが掴んで支える。


「い、痛い、なんで……」


 瞼を閉じているのに、暗闇の中で緑や紫の光が明滅する。


「部屋へ戻るぞ」


 待っていれば治るかも。そうスイは言いかけたが、浮遊感に体が包まれる方が先だった。ロイドは難なくスイを抱き上げ、来た道を辿る。

 大したことはないのに、自分が大げさに痛がったせいだ。スイはまだ痺れの残る目を閉じたまま、ロイドの腕の中で身を縮こまらせた。

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