26. 信念 2
部屋に到着次第、スイはベッドの上へ下ろされた。次に受けるのは注意か、叱責か、一喝か。面を上げずとも、そばに立つロイドからの圧力は嫌でも分かった。
「なぜあんなことをした」
何も返せず、スイは項垂れる。
「人前で体液を出すなと言った筈だ。流血でも起こしたらどうするつもりだった」
「……ダルクが、困ってたから……」
「お前がやらなければならない理由はないだろう」
「……ごめんなさい」
弁解のしようもない。スイの行動は、ロイドからすればさぞ独善的に見えただろう。
負担になりたくないという思いが空回り、軽率に目の前の役目にとびつき、ロイドの手を更に煩わせた。
いつだって、本当に成したいことが成し遂げられない。これ以上邪魔になる前に、引き際を弁えねば。
「……昨日言った、一人で出たいって話……」
「まだ一人で外へ行きたいのか」
「そうじゃ、なくて……もういい、から。ずっと部屋にいる」
スイは慎重に言葉を選ぶ。昨日のように、我儘だと誤解されたくない。
「その、食事も、三回じゃなくても、村では一日二回だったし……何日分かたくさん持ってきてくれれば、それでも」
言いながら、これでは食事を持って来させることに変わりないのではと焦る。
世話を要求しているのではなく、要は自分にそうこまめに構う必要はないのだと伝えたかった。
一人の外出が叶わないならば、そもそも部屋から出なければ良い。日に三度の食事を都度用意する手間だって、スイもそれなりに理解しているつもりだ。
ロイドが何も言わないため、じりじりとした沈黙がスイの張り詰めた胸中を焼いた。
膝の上で無意識に握りしめていた手に、床に膝をついて身をかがめたロイドの手が重なった。血の気の引いた白い指先の関節を、ロイドが一つずつゆっくりと伸ばしていく。
「どうしてそんなことを言い出す」
「だって」
「外へ出たくなくなったか」
「そんなことは……」
そんなことは、ない。空を見たい。美しいものをもっと見たい。怖いものばかりだと思っていた地上が、そうとも限らないと知った。
けれど誰かの足手まといになるというのなら、ちっぽけな欲は捨てるべきだ。
「あの、絵本……」
「絵本?」
「新しい絵本……ずっと部屋にいるから、だから……絵本だけ、もう一つ欲しくて」
スイは、枕元の絵本に目をやった。文字の学習用に、ロイドから与えられた絵本だ。
受け取った当初から既に使い込まれていたけれど、読みすぎたせいで今は更に古ぼけてぼろぼろだ。表紙の色は剥げているし、開きすぎたせいか綴じ糸がほつれ、緩んでいる頁もある。
本に載っている単語はもうすっかり覚えたのに、繰り返し見ても飽きなかった。ロイドが贈ってくれた物だと思うと、そらで浮かぶほど目に焼き付いた絵も、未だ鮮やかに見える。
だがこれ以上酷使すれば、本をばらばらに壊してしまいかねない。ずっと部屋にいる代わりに、新しい絵本をねだるくらいは許されたかった。
「顔を上げろ」
指示に従いスイがゆっくりと顎を上げると、ロイドの凪いだ碧眼と視線がかち合った。
「なぜ、ずっと部屋にいようと思った」
「……ロイドが、忙しいって」
スイはまつ毛を伏せる。一丁前にロイドの多忙を案ずるほど、スイの立場はご立派なものではない。要らぬお節介と言い捨てられる覚悟だったが、続くロイドの声は穏やかだった。
「確かに、近頃は少し忙しない。だがお前が気にすることではない」
「……でも僕、何の役にも、立ってなくて」
「役に立ちたいのか?」
「……」
「なぜ役に立ちたいと思うんだ」
スイは答えに窮した。なぜと問われても、明確な理由はない。人の役に立つことが当たり前だと思っていた。役に立って、初めて一人前なのだと。
「……そうしないと、認められない、から」
「誰に認められないんだ」
「……」
「役立たずと、誰かに言われたことがあるのか」
「……そうじゃない」
スイを指さした者はこれまで一人もいない。穴掘りになる前も、穴掘りになった後も、地上へ出てからも。
そう思っているのは、他でもない自分だ。
結果を出せない自分が嫌だった。能力がないことを知られて、無能とばれるのが怖かった。
「役に立たないと不安か」
ロイドの手のひらがスイの顎を掬い、前を向かせた。淡銀の目は、潤み出す寸前だった。
「……うん」
「人に認められないと、不安か」
「…………うん」
ずっとそうだった。人に認められるような人になりたくて、なれなくて、苦しかった。
スイの瞳の表面が、みるみるうちに水膜で覆われる。
「自分の価値は、自分で決めろ。他人に決めさせるな」
ロイドの親指がスイの目元を拭うと、押し出された涙が一滴溢れた。
「自分の、価値……?」
「己の価値を決められるのは、己を認めた人間だけだ。己を認め、人のためではなく己のために生きろ。信念を持て」
「……しんねん、」
「心に固く抱く意志だ。信念は前進するための柱となってくれる。迷った時に道標となり、生き抜く助けになる」
スイは瞬きを忘れた。
ずっと、胸を張れる人間になりたかった。けれど、それは誰のためだったのだろう。ただ皆と同じになりたかっただけで、そこから先のことは考えたことがない。生き方など、考えたこともない。
ロイドの言葉が、頭の中の靄を薙ぎ払っていくようだった。
「……ロイドには、信念ってあるの?」
「ああ。大切なものを正しく見極め、守ることだ。目的を果たすには、己の価値を認め、疑ってはならない。自分にはできると信じ続けなければ、まず始まらない。自己暗示と言えばそれまでだが」
自嘲気味に目を伏せたロイドだが、しかしスイはそこに充足感を垣間見た気がした。
「……でも認めるってよく、分からない」
「まずは己の声に耳を傾け、ありのままの自分を見つけてやれ」
「ありのまま……?」
「今一番、やりたいことはなんだ。様々な空が見たいと、以前言っていたな」
スイは小さく頷く。
「本来は、年が明けて以降の予定だったが……一人での外出を許可する」
思わぬ話に、スイは目を見開いた。
「数日待て。手配する。どちらにせよまだ敷地内から外には出せんが……空について調べてみろ。書架を漁るも良し、知る者に聞くのも一つの手だ。望みと正面から向き合えば、本当の己の姿をいずれ掴める。欲とは人の純粋な姿だからな。何をすべきかは、何をしたいかを知るところから始まる」
スイの目の前には、うず高い土塊が積みあがりずっと視界を塞いでいた。それがロイドの手によって崩され、ならされ、道の形になってゆく。
「でも昨日、まだ出すわけにはいかないって……」
「そうだな。だが仕方がない。お前のように、他者の承認に振り回され、己に価値はないと思い込んでいる者を見ると、どこに居ようと駆け付けて叱りつけたくなる。説教されたくなければ、せいぜいよく自分を探すことだ」
ロイドはスイの頬を撫でた。
「一人で出すにあたり、条件は増やさざるを得ない。守れるか?」
「う、うんっ……」
吹き上がる感情にまかせ、スイの口から大きな声が出た。
己を認めろとロイドは言った。何をせずとも認めて良いのだと言ってくれた。
煩雑に絡み合っていたスイの不安が解きほぐされ始めた。それが、スイは打ち震えるほど嬉しかった。
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