蒼穹堕とす日陰の子

@toiki_OO

序章

0. 日向へ

「もうこんなに暑いのか」


 位置の高い太陽が、容赦なく地に照りつける。

 看板を出すために店外へ出た食堂の店主は、空を見上げた。

 晴れ渡る空は見事な青で、雲一つない。昨年の今頃は、まだ過ごしやすい気温だったはずだ。思いのほか早い夏の訪れに、たまらず目が眩む。


 今日は飲み水がよく出そうだ。の在庫を確認しなければ。次の補給までもつだろうか。勘のいい客に「薄い」とケチをつけられたら厄介だ。


「すみません」


 後方から不躾に声をかけられ、驚かされた店主は不機嫌なまま振り返った。

 このうだる暑さに似つかわしくない、涼やかな声だった。そこに立っていた少年らしき背格好の人物は、見ているだけでうんざりしそうなほどの厚着をしていた。

 腰の下まで覆う濃緑のマントを纏い、深くフードを被って俯いている。背の高い店主からは、顔を伺うことはできない。手袋にブーツまで身につけ、素肌の露出が一切ない。


「なんか用かい?」


 面をあげない相手を、店主は当然に訝しんだ。


「あの、人を探しています。その……髪が黒くて、背が高くて、青い……この空みたいな目の男の人を」


 少年の声は、上擦っていて歯切れが悪い。たどたどしい口調には緊張が見える。


「……さあ、どうだかねぇ」


 店主は思い出すふりをしながら、この不審な来訪者をよく観察した

 衣服はぼろではなさそうだが、全体的にうす汚れていた。大きな荷を背負っているところを見るに、旅人か放浪者の類か。

 金は持っていそうにない。子どもが一人で人探し。厄介ごとの匂いがする。

 胡散臭い人間に店の前に居座られては、商売の邪魔だ。店主は少年を追い払うことに決めた。


「悪いな、覚えにねえ。この店にくるのはほとんどが馴染みの顔ぶれだからよ」

「そうですか……」


 少年の肩が落胆に落ちる。


「力になれなくて悪いね……ん?」


 さっさと会話を切り上げようとしたその時、店主の鼻孔をほの甘い香りが掠めた。経験のない匂いのはずだが、何故だか覚えがある気がした。


「なんだコレ、アンタ香水でもつけて……」


 鼻を鳴らしてしっかり匂いを捉えようとした矢先、店主の肌がゾクリと粟立った。

 腹の底に眠っていた、甘く危険な飢えが呼び起される感覚。このままではきっと、頭が溶けて思考が爛れる。抗えぬ恐怖に、全身が引き攣れた。


「ごめんなさい、忙しいのにありがとう」


 少年の声に、店主の意識が戻る。

 店主がハッと気付いた時には、少年はマントを翻し駆け出していた。


「お、おい!」


 呼び止めても、少年は目を剥く素早さで通りの角を曲がって行き、あっという間に姿を消した。

 あの奇妙な香りが、徐々に薄れていく。食われかけた意識も明瞭になってきた。


「何だったんだ、今のは……」


 一瞬の出来事だった。ぎらつく太陽のせいだろうか。恐ろしいのと同時に、もう一度嗅ぎたいと思わせるあの匂いを、店主は生涯何があっても忘れられそうになかった。




 少年は全速力で走った。焦りに足が速まる。もしかしたらあの店主が何かに気が付いて、追いかけてきているかもしれない。胸をつき破りそうなほど、心臓がうるさい。


「はぁっ……!」


 町の大通りから外れ、路地裏にとびこんで建物の陰に入ると、少年は詰めていた呼吸を一息で吐き出した。周囲を注意深く見渡し、誰もいないことを確認する。


 かぶっていたフードを頭の後ろに落とす。現れたのは、発光しているかと見紛うほど白く色の儚い少年だった。

 白皙はくせきの肌に、水々しく丸い頬。癖のない白金の髪はそよ風になびいている。

 髪色と同じ色の濃い睫毛で縁どられた瞳は、薄い灰かともすれば銀色にも見え、水面のような透明感を湛えている。

 肌も髪も、瞳すら消えてしまいそうなほど淡い。だからこそ、慎ましやかな桜色の唇の存在感は余計に蠱惑的だ。


 少年はうなじにかかる髪の毛先を持ち上げ、汗ばんだ首筋に風を通した。


「夏がこんなに暑いなんて……!」


 少年は荷の中から清潔な布を引っ張り出すと、茹って紅潮する肌の湿りを拭い取った。経験のない気温に、体温調整が上手くできない。

 この厚着でいては、もっと汗をかいてしまう。けれど、少年は日光に肌を晒すわけにはいかなかった。


(夏はこれからもっと暑くなるの……? 秋まで待つべきだった? でも、でも)


 少年は、人探しの旅路の道中にいた。


――自分の価値は自分で決めろ


 優しい言葉が脳裏によぎる。


――スイ、ありのままの自分を見つけろ


 こちらを見つめる、澄み渡った空の瞳が浮かぶ。大好きな瞳。瞳だけではない。低く落ち着いた声も、大きな手も、抱きしめてくれる腕も、信念を貫く強い心も、何もかも好きだ。


(でも、僕はどうしても、ロイドに会いたい)


 だってこの足は、彼の元へ帰るためにある。そう、彼が言ってくれたから。

 滲んできた涙を雑に拭い、少年はフードを被り直す。日向をまっすぐに見据え、雑踏の中へ再びその歩を踏み出した。

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