五の二

 藤林ふじばやしあぐりは、自分の部屋のベッドにうつぶせになって、枕に顔をうずめて、とめどなくあふれる涙をぬぐおうともせず、ずっと泣きつづけていた。


 犬のアオイはなにも言わない。


 叱咤するでもなく、慰めるでもなく、そしらぬ顔で自分専用のクッションのうえで丸まって、うとうととまどろんでいる。


 男に振られて泣きたい時は思いっきり泣けばいい。


 それが、私の教育方針よ、とでも言わんばかりの寝相である。


 ふと、あぐりは背中に温もりを感じた。


 まるで、誰かにやさしく抱きしめられたような、温かさであった。


 あぐりは、寝返りをうって、体を仰向けにした。


 と、天井から、まばゆいピンク色の光とともに、あぐりのアルマブレスレットが降りてくる。


 その光にアオイも気づいたらしい、引き寄せられるように顔をあげてじっとその不可思議な光景を見ている。


 あぐりは、体をおこし、ブレスレットに手を伸ばした。


 温かさが手から全身に流れ込んでくる。


 ブレスレットを両手で包み込むようにして、胸に抱いた。


「おにいちゃん」


 泉水があぐりの前にふたたびあらわれてからの、彼の押し殺してきた本当の心情が伝わってくるのだった。


「そう、おにいちゃんも苦しかったのね」


 そうしてあぐりは決然と顔をあげた。


「私、闘うわ」




 楯岡紫たておか ゆかりは、ふてくされた気持ちのまま、家の縁側に座って、もう日が沈んで真っ暗になった庭を眺めていた。


 どうして百地に勝てなかったのか。


 勝てぬまでも、一矢むくいることが、なぜできなかったのか。


 そんな慙愧の念ばかりが頭のなかをぐるぐるまわっているのだった。


 が、腹は減る。


 ちょうど祖母が、ご飯ができたことを告げにきたのを潮に紫は立ち上がった。


 その時。


 突然、暗かった空が、真昼ように明るくなった。


 見上げれば、空から青く輝くアルマブレスレットがゆっくりと降りてくる。


 紫は腕を伸ばす。


 つかんだその手から、百地の無念さが伝わってくるようだった。


「け、いきがってたくせに、あっさりと負けやがって。いいぜ、私が仇を討ってやる」


 紫は不敵な笑みをその口の端に浮かべるのだった。




 安アパートの二階にある部屋の窓から見る景色は、ごく普通の家家の壁と窓ばかりで、音羽小町おとわ こまちの心をなごませる何物も、そこには存在していなかった。


 日が暮れて、明かりがつけられる部屋、真っ暗なままの部屋、早早に雨戸を閉めている部屋。


 住民がどんな人なのか、どんな生活を送っているのかすら想像できないほど、それは地味で無味なものであった。


 すると、その空疎な景色のなか、黄色く輝く物体が、空から降りてきた。


 小町は窓から身を乗り出すと、格子に手を乗せてささえて、もう一方の手を降りてくるアルマブレスレットにのばした。


 手のひらにふわりと乗ったブレスレットは、何か人の肌に触れたような温かみがあった。


 そして、そのブレスレットを送った人の気持ちも伝わってくるのだった。


「そう、服部先生も悔しかったでしょうね」


 それは、憐れみではなく、ざまあ見ろとでも言うような、侮蔑するようなつぶやきであった。


「いいわ。私がその男を倒してみせる。あなたがどれだけあがいてもかなわなかった敵を」




 あぐり、紫、小町の三人と犬のアオイ一匹は、車を降りて、その夜空にそびえる無窮なる楼閣をながめていた。


 名津岐なつき市の一等地に建つ三百メートルのI.G.A.S.アイガスビルは、見上げれば息がつまりそうだったし、遥か上空から押しつぶしてくるような、凄まじい圧迫感であった。


 いや、ビルの圧迫感だけではない。


 見上げた遥か最上階から、吐き気をもよおすような、嫌悪を感じる負のアルマがこの地上にまで届いてくる。


「じゃ、僕はこの辺りで待ってるから。本当は助けてあげたいけど、今の僕じゃ、かえって足手まといだからね」


 紫の兄、晴明はるあきは、車の運転席からそう言ってにっこり微笑みかけた。


 あぐりの父源次郎がまだ仕事から帰ってきていなかったから、晴明に送ってもらうことにしたのだった。


 晴明は今、紫の家の前に診療所を作ってほそぼそと開業医として生活していた。


 ほそぼそ、といっても、近所のおばあさんたちには、その容姿の端麗さから人気があり、朝から晩まで、患者はそれなりに訪れているのだった。


 あぐりたちは晴明にうなずくと、ビルの正面玄関にむけて歩き始める。


 何が待ち受けているのか、まるでわからない恐怖。


 待ち受けているのが何者であろうとも必ず倒すという決意。


 そして、すべてを乗り越えんとする勇気を胸に、一歩一歩、進んでいくのだった。

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