三の三

 土俵の端と端で、大原と対戦相手が蹲踞の姿勢で手をもみ、叩き、腕をひらいて手のひらを上から下へ返す、塵浄水ちりちょうずをする。


 そして、中央へと両者歩み寄る。


 ――試合に勝てたら、小町が、ひとつだけ願い事をきいてやってもいいってさ。


 さっきの紫の言葉が、大原の脳内を駆けめぐっていた。


 ――試合に勝ったら……、僕は……。


 そうして、声援を送る小町の姿をみると、大原はつい、胸元に目がいってしまうのであった。


 ――いけない、バカなことを考えてはいけない。試合に集中しないと。


 大原は、蹲踞そんきょをしながら仕切り線の向こうに立つ、相手選手を見た。


 一年後輩の彼は、刃物のような鋭い眼光をして、大原をにらんでくる。


 思わずそらしてしまいそうになるほどの力強い眼力であったが、がんばって気力を奮い立たせ、にらみかえした。


 練習場に満ちた熱気のせいか、大原の体は、すでにじっとりと汗ばんできた。


「構えて!」


 主審の先生が合図した。続いて、


「両手を同時について」


 の声に、互いに土俵に拳をつく。


「引きますよ」


 主審の声が響き、互いの体に緊張がみなぎる。


 しんと静まりかえった場内、観客たちは息を飲んで試合開始を見守る。


「はっけよい!」


 主審のかけ声とともに、ふたりは同時に立ちあがる。


 まわしを取るべく、大原は手を伸ばす。


 が、そうはさせじと、相手はつっぱりを繰り出す。


 つっぱり、つっぱり、つっぱりの連打。


 大原の激痛などおかまいなしに、冷酷なつっぱりが次次に繰り出されてくる。


 顔面を激しく平手で打たれ、大原の上半身が起き上がり、後ろによろめく。


 刹那、相手がまわしをとりに踏み込んできた。


 だが、大原もチャンスとばかりに、伸びた体を必死に前に倒しつつ、踏み込む。


 がしっ。


 互いに右上手、左下手。


 がっぷり四つに組んだ形となった。


「ふぬぬぬぬっ!」


 大原が渾身の力を込めて、相手を押そうとする。


 が、相手はまるでびくともしない。


 どころか、ずい、ずい、っと大原の体が押され始めた。


 ずい、ずい、ずい、ずずずずずっ!


 大原の体は、抵抗虚しく、一息に土俵際まで押されてしまった。


「「「がんばれっ!」」」


「おせっ!」


「ふんばれっ!」


 小町が、紫が、あぐりが、そして、場内の観客全員が、大原を応援し、相手を鼓舞する!


 大原は、俵にかかとをひっかけた形で、相手の圧力に耐える。


 相手は、なおも気をゆるめず、休まずにぐいぐいと押してくる。


 しだいに、大原の体が起き上がり、背が弓なりに反りかえっていく。


「たえろ!」紫が叫ぶ。


「負けるな!」あぐりが応援する。


「うっちゃれ!」小町が叱咤する。


 その小町の声が大原の耳の奥深くに届き、心のなかの何かを激しく打ちつけた!


「ふんのーーーっ!」


 奇妙な叫びとともに、大原は相手の体を腹に乗せるようにして体を左にひねる。


 ひねりざま、右の上手で強引に相手を投げた。


 が、大原の体も崩れる。


 相手が土俵の外に落ちていく。


 大原も倒れる。


 どしんっ!


 ふたりの体が、もつれあいつつ、土俵の外に落ちた。


「勝負あった!」主審のかけ声が響き渡る。


 今までの、応援と激励と怒号がいっぺんにやみ、しんと場内は静まり返り、主審の手に視線が注がれる。


 あがった手は、右!


「大原!」主審が勝ち名乗りをあげる。


「やった!」


「きゃーっ!」


「よっしゃっ!」


 小町が、あぐりが、紫がけたたましく歓喜の叫声をあげる。


 場内がどっとわきたつ。


 練習場が崩れんばかりの、喝采と拍手の嵐であった。


 礼をして、いったん土俵からさがった大原は、小町を盗み見るように見た。


 ――こ、これで、音羽さんの、お、お、お……。


 ごくり、と大原は生つばを飲み込んだ。


 小町は、その瞬間、背筋に悪寒がつっと走り、


「な、なにかしら、なにか、ぞわっとしたわ」


 身震いするのであった。


 そして、二戦目。


 大原は、試合が開始された直後、押し倒されて、あっさりと負けたのだった……。

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