後編

「学校には冷房とかあるの?」と島田のおばあさんが聞く。


「ええ、教室にいる分には涼しいです」とあぐりは麦茶をひとくち飲んだ。


「いいわねえ。私たちの頃は、学校になんて冷房どころか扇風機もなかったから、それでも今よりは暑くなかったからかしら、なんとかなってたわ」


「やっぱり今より昔のほうが涼しかったんですね」


「暑かったことは暑かったのよ。でも今とは暑さの質が違っていたわね。真夏の昼間でも出歩くのは危険、なんてことはなかったわ」


「今じゃ、暑さ対策は必須ですもんね」


「そうよ、年寄りなんて、三歩あるいただけで倒れてしまいそうよ」


「そんなあ、まだまだお元気で。おじさんは暑いの大丈夫なんですか?」


「うちの人?あの人、暑さなんか感じるかしらねえ」


「え、そうですか、お丈夫なんですね。おばさんだって、まだまだお丈夫そうで」


「見た目ほど若くはないのよ。あら、私いくつに見えるかしら」


「さあ、六十……五、くらいですか?」


「あら、やあねえ、もう七十越えてるのよ」


「ええ~、そんな全然見えませんよ」


「そういえば、うちの人と出会ったのも暑い盛りだったわねえ」


「へえ、どんな出会いだったんですか?」


「出会いも何も、朝、学校に遅刻しそうで道を走っていたら塀のカドでばったりぶつかっちゃって」


「漫画みたいですねえ」


「うちの人、次の日、ぶつかってごめんなさい、とか言って、押し花を持ってそこに待っていたのよ。押し花もらって、それで恋が芽生えるんだから、たしかに漫画よね。それに、私が十六で、あの人が二十八だったんだから、今だと犯罪よね」


「おじいさん、ロマンチストだったんですね。今もかな?」


「今も?今はどうだろうねえ」


「お年をとってもロマンチストって素敵です」


「あぐりちゃん、学校どう?」と島田夫人はちょっと妙な顔をして急に話をかえた。


「そうですねえ、ぼちぼちですね」


「ぼちぼち?」


「勉強はほどほどですし、友達とも仲良くやってますし」


「彼氏とかはいないの?」


「ええ~、いませんよ~」


「あらそう、今の子はずいぶん進んでいるんでしょう?」


「まあ、人によりますね。私なんか、ずっと奥手なほうですから」


「あぐりちゃんくらい可愛ければ、言い寄ってくる男子も多いんじゃないの?」


「そんなことありませんよ~」


「んま、ご謙遜」


「なかなかそういう人にはめぐりあえないものですよ」


「そうかしらねえ、すぐ近くにいるのに、気づいていないだけなんじゃないの?」


「まさかあ。私なんて、いつもおばさんのことうらやましく思ってるくらいで」


「私のこと?」


「いつもご夫婦で仲良くって、年をとってもおふたりみたいな関係でいられたらなあ、なんて思ってるんですよ」


「私と?誰が?」


「おじさん」


「…………?」


「…………?」


「まあ、仲が良かったことは良かったけど、うちの旦那のこと、知ってるの?」


「話したことはなかったですけど、いつもご挨拶してますよ。ねえ、おじさん?」


 と、机の向こうに座るおじいさんにあぐりがほほ笑むと、おじいさんはにこりとしてうなずいた。


「はて?」


「どうかしました、おばさん?」


「うちの旦那なら、あっちにいるけど?」


「あっち?」


「ほら、向こうの部屋の仏壇があるでしょう?」


「はい」


「そこに、遺影があるわよ」


「へ?」


 あぐりは、隣の部屋にある仏壇をみつめると、そこに、白黒のほほ笑むおじいさんの写真が立てられていた。


「こないだ十三回忌をしたところだから、亡くなったのは、あぐりちゃんがこっちに越してくるちょっと前だったわねえ。脳卒中でぽっくりと」


「へ?」


 と振り向いたあぐりの、目線の先でにこやかに座っているおじいさんの体が、じょじょに薄くなって、向こう側が透けていくのだった。


「あの遺影、ちょっと格好よすぎるわよねえ。ほんとはもっと老けてたし、写真屋さんの腕ってすごいわよねえ、皺もずいぶん消えてるし。生きていたら八十……いくつかしら、年とるとやあねえ、こういう簡単な計算がぱっとできないんだから」


 と喋りつづけるおばあさんの話など、あぐりの耳にはもちろんまったくとどいていない。


 ただ笑って手をふりながら消えていくおじいさんから目が離せないでいた。


 目が離せないまま、あぐりの顔は驚愕でひきつって青ざめていき、額から嫌な汗が流れ落ちる。


 そして、数秒後、おじいさんの姿は、跡形もなく消え去った。


「ギィヤァァァーーーーーーーッ!」


 住宅街の午後の静寂を引き裂いて、少女の悲鳴が町全体に響き渡ったのであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る