序の二

 九月一日。


 雨。


 藤林ふじばやしあぐりが教室の窓ぎわの自分の席から眺める空は、せっかくの新学期初日だというのに、あいにくの天色であった。


 薄墨色をして梅雨のような細かな雨つぶが、しとしとと降りつづけている。


 あぐりには、こんな雨の日に、いつも思い出す光景があった。




 まだ、五つだったころ。


「あめあめふれふれかあさんが、じゃもめえおむかえうれしいな……」


 お気に入りの黄色い傘をさして、なにをした帰りだったか、道を鼻歌まじりに歩いていた。


 ふと気がつくと、道の向こうから、お母さんに手を引かれた保育園の男の子が、相合傘で歩いてくるのだった。


 あぐりは立ち止まって、そのふたりをじっとみつめた。


 先年母親を亡くしたばかりであった。


 まだ、抱かれた肌のぬくもりさえも忘れていないその母を、にこやかに子供の手を引く見ず知らずの女性のなかに見つけたのも無理はなかっただろう。


 通り過ぎて行くふたりをじっと見つめて、あぐりはまた歩き出す。


「あめあめふれふれかあさんが、じゃもめえおむかえうれしいな……」


 その時ふと、家の塀のかどにひとりの中学生が立っていることに気がついた。


 ブレザーの制服を着た中学生はやさしくほほ笑みながら、あぐりをみつめてきた。


「おにいちゃん!」


 あぐりは彼に向かって走り出した。


 大好きな、遠縁の泉水いずみおにいちゃんであった。


 あとから思い返せば、彼はあぐりが親子を見つめていたのを、どこかで見ていたのだろう。


「だいじょうぶ?」と泉水は話しかけてきた。


「うん、だいじょうぶだよ」


 あぐりは泉水の手をにぎり並んで歩き出す。


「あのね、わたし、ちっともさびしくないの」


 あぐりが訊かれもしないのに、そう話し出したのは言葉とはうらはらに、やはり寂しさが胸にわだかまっていたからであろう。


「そうだな」と泉水は答えた。「お父さんがいるものな」


「ちがうよ、おにいちゃんがいるからだよ」


「ふうん、そう」


「うん、だからね、わたし、大きくなったらおにいちゃんのお嫁さんになるの」


「ふうん、そう」


「なんだったら、あいじんでもいいよ」


「そ、そう……」


 あぐりは泉水の手をぎゅっと力強くにぎりしめた。


 ふたりを、霧のような雨がつつんでいた。




「ああ、その話聞くの、五回目くらいだわ」隣の席に座った楯岡紫たておか ゆかりがあきれるように言った。


「いいじゃないの。あぐりちゃんの初恋?」音羽小町おとわ こまちが興味津津といった顔で訊く。


「まあ、初恋と言うか、あこがれというか」とあぐりは照れながら返した。


「とか言って、今でも泉水おにいちゃんのことが好きで、いつか街角でばったり再会して、恋の炎が燃えあがるんじゃなかろうか、とか考えてるんだぜ」


「ちょ、やめてよユカちゃん。まあ、考えなくもないけど……」


 と、教室の戸が開けられ、担任の服部巴はっとり ともえ先生が入ってきた。


 相変わらずのトレードマークの赤ブチ眼鏡に、臙脂色のジャージ姿であった。


 が、相変わらずでない光景がその後に続いて入ってきた。


 その男に、女生徒達たちが色めき立ち、いっせいに嘆息がもれる。


 そのなかであぐりだけが、目を大きく見開きその姿をみつめた。


「そ、そんな、まさか……」


 そうして挨拶をすませると、服部先生、


「ああ、話すことはたくさんあるが、最初に言っておかないと、女子達の動揺がおさまらんだろうから、紹介しよう」


 隣に立つ、身長百八十センチ、引き締まった体、細いフレームのオーバル眼鏡をかけた紺色のスーツ姿、とがった顎にすらりと通った鼻すじ、切れ長の目に薄い唇をした、二十代中ごろのハンサム男性を手でしめして、


「転任した天野先生にかわって、本日から副担任を担当することになった、藤林泉水先生だ」


「きゃーっ」「先生年齢は?」「身長はいくつ?」「学歴は?」「結婚してるんですか?」「出身は?」「彼女は?」「藤林さんの親戚ですか?」「キャーッ」


 いっせいに女生徒達が質問攻めにし、教室の中は嵐のような様相をていした。


「だまらっしゃいっ!」服部先生の一括が飛んだ。


 まさに水を打ったように、教室は静まり返った。


「まったく、ちょっとハンサムだと、ワーワーキャーキャー。前の天野先生の立場がないだろう。ちなみに藤林先生は、そこにいる藤林あぐりさんとは親戚だ」


 女子生徒だけでなく男子生徒もいっせいにあぐりに向けて振り返り、視線のスコールを浴びせかけるのだった。


 が、あぐりはそんなこと気づいてはいない。


「おにいちゃん……」


 あぐりは、頬を上気させ、ほほ笑むような引きつったような顔をして、思考は完全に泉水おにいちゃんのもとへトリップしているのであった。

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