序の三

 そして、通常授業が始まった。


「出産のために休まれることになった横山先生の代理で、お前たちの体育を受け持つことになった、百地智徳ももち とものりだ」


 一同、どよめいた。


 産休の女教師の代わりが、身長百九十センチ、筋肉モリモリでスポーツ刈りのいかつい男教師である。


「今時、女子の体育の授業が男の教師かよ」紫が天を仰ぐように言った。


「しかも何、あれは。藤林先生みたいな男前ならまだしも、ムキムキマッスルマンって」小町は首をふっている。


「普通、命令されても遠慮して断るぜ。私のような筋肉ゴリラよりも適任の教師がいるはずです、ってさ」


「あんたと同じで、脳ミソまで筋肉でできてんじゃないの」


「あんだと、誰が脳筋だ、コラ」


「ちょっと、やめなよふたりとも、怒られるわよ」あまりに高鳴るふたりの罵詈雑言に、あわててあぐりが止めに入った。


 と、


「そこっ、何を私語しとるかっ!?」百地先生から一喝が飛んだ。


「すみませーん」紫がぞんざいにあやまった。


「なんだその言い方は!それで謝る気があるのか!」


「どーも、すみませーん」小町もぞんざいな態度である。


「そこの三人、グラウンド三周、走ってこい!」


「ええっ!?」あぐり、とんだとばっちりである。


「藤林さんは、関係ありません」紫が挑むように言った。


「口答えするなっ。もう二周追加だっ!」


「ちっ」と紫は舌打ちして、列を離れて走り出す。


 小町もしぶしぶといったていで後に続く。


 あぐりは、肩を落として、ふらふらついていく。


「なんだ、お前らその態度はっ。もう三周追加するぞ!」


 そうして、グラウンドの反対側まで走った頃、


「なんだあのクソゴリラ」紫の悪態がはじまった。「ぜったい決め打ちであたしらのこといびってるんだぜ」


「威厳をみせるために、私たちを見せしめにしてるのよ。矮小な人間のやりそうなことだわ」小町も同調して言う。


「ちょっと、ふたりとも、また罰を増やされるわよ。だいたい、ふたりが何も言わなければ見せしめにいびられることもなかったんだから」あぐりがいましめた。


「どうだかな」紫は何かを直感しているような口ぶりであった。




 そうして、古文の授業。


 あぐりにとっては、楽しみでしかたがない、藤林泉水の授業である。


 が。


「では、本日から徒然草の授業をはじめる」


 藤林先生の刃物のような声が教室に響いた。


 このたったひとことで、男前だからきっと優しいだろう、という女子達の持っていた根拠のない期待は、ばっさりと切り捨てられた。


「楯岡、読め」


 紫が立ちあがって、徒然草第十九段を読み始めた。


「をりふしのうつりかわるこそものごとにあわれなれ。もののあはれは秋こそまされとひとごとに言ふめれど、それもさるものにて、いまいちきは」


「なんだと?」


「え?」


「え、じゃない、何と読んだ」


「いまいちきは」


「いまいちきは。日本語の辞書のどこにそんな言葉が書かれている」


「知りません」


「一きは、は、いちきは、ではない、ひときわ、と読むんだ」


「はあい」


「もういい、後ろの、続きを読め」


 失敗をすれば即とがめられる恐怖に、皆畏縮しながら、教科書を読みつないでいった。


 そしてキリのいいところまで読み終わると、藤林先生、


「もののあはれは秋こそまされ、と人ごとに言ふめれど。これは誰の言葉だ。藤林」


「は、はい。あの、その」


「どうした、こんなことも答えられんのか」


「えっと、ちまたで噂されている、という意味だと思います」


「なんだと、クイズをやってるんじゃないぞ」


「は、はい」


「こんな問題、ちょっと予習してくればわかるはずだ。もういい、本田答えろ」


「はい、拾遺集第九巻からの引用です」


「そうだ、よくできたな」


 あぐり、顔を真っ赤に染め、背中に嫌な汗をかいて、うなだれたまま椅子に座った。


 人前で恥をかいたのと、憧れの男からの叱責に、あぐりの心はこなごなに打ち砕かれてしまったのだった。

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