四の三

 楯岡紫たておか ゆかりは、自宅に併設されている真限しんげん流空手の道場で、ひとり型の稽古をしていた。


 すでに三十分ばかりも体を動かしているものだから、道着のなかの肌は汗でしめっていたし、昔ながらの木造の道場の窓は開け放してあったが風はゆるやかだったから、その汗を乾かしてくれるほどの涼しさはなかった。


 夕方の練習時間前の門人たちがまだ顔をみせないひとときを、こうしてひとり稽古にはげむのは、心地よいものであった。


「ごめんください」


 ふと、入り口のほうから声が聞こえてきた。


 よく通る太い男の声であった。


 紫は舌打ちをした。


 せっかくの心地よいひとときを邪魔にされた不快さがあった。


「ごめんください、だれかおられませんか。たのもう、たのもう」


 しつこいおとないの声にしぶしぶ動きをとめると、紫は玄関に向かった。


 と、そこには、


「げっ、モモッチ!?」


 体育教師の百地智徳ももち とものりが立っているではないか。


 学校でよく見るジャージ姿ではなく、ダークイエローのジャケットにダークグレーのカーゴパンツをはいていた。


「げっ、モモッチ、ではない、百地先生だ。お前は空手の技を身につけるまえに、人に対する礼儀と敬意を身につけろ」


「はいはい、何の御用ですか百地先生。抜き打ち家庭訪問じゃあるまいし」


「道場破りに参った」


「へへっ」と紫は口元をゆがませた。「あんまりつまらない冗談なもんだから、逆に笑っちまった」


「冗談ではない。正確には、道場の看板をいただきに来たのではなく、お前のアルマブレスレットをいただきに来たのだがな」


 紫は怪訝な目でじっと百地を見た。


「なんか、最初っから胡散くせえ野郎だとは思っていたけど、こいつが目当てだったとはな」と手首のブレスレットを叩いた。


 百地の口ぶりからさっすると、紫が変身できることもすでに知っている様子だ。


「一応説明をしておくと、I.G.A.S.という俺の属する組織がそれを必要としている。いただかないと、俺の出世にもかかわるんでな」


「丁寧に説明すれば、はい差し上げます、とでもいうと思ったか。特にアイガスなんていう悪の秘密結社になんぞわたせるものか」


「悪の秘密結社ではない、れっきとした民間軍事会社だ」


「ちゃんとした会社が、健全な少女の持ち物を奪うのか?」


「ははは、痛いところを突きおる」


「欲しかったら、私を倒して奪い取るんだな」


「最初からそのつもりで来た」


「じゃ、あがんな」


 そう言って紫はずんずん歩いて先に道場の真ん中に立った。


 紫に見合って立った百地は、


「変身せい」


「なんだと?」


「変身せねば、俺には勝てんぞ」


「冗談じゃねえ、生身の人間相手に、スーパーヒロインになって闘えるか」


「しょうがないのう。途中で変身したくなったら、素直に待ったするんだぞ」


 百地は、静かに礼をした。


 紫も礼を返す。


 ふたりは同時に構えた。


 お互い、静かに呼吸を繰り返す。


 そうして、いつか、ふたりの呼吸が重なった。


 瞬間。


 紫が、踏み込むと、渾身の右手突きを放った。


 が。


 次の瞬間、紫の体が虚空を舞っていた。


 紫の突き出した腕をつかみ、百地が背負い投げに投げたのであった。


 空中でもんどりうって、紫は着地した。


 そうとうの柔道の腕前だと、今の一撃で、紫はさっした。


 だが、変身するまでもない。初めての柔道との異種格闘であったから、油断しただけだ。


 紫は蹴り攻撃にうつった。


 体を回転させながら、連続して蹴る。


 百地はそれを、ひょいひょいと、何気ない調子でかわす。


 そして、とうとつに脚払いをかけてくる。


 転びかけた紫は、踏ん張って耐える。


 そこへ、百地が飛び込んでくる。


 襟と腕をつかまれ、紫はさっと後ろに下がってはずそうとしたが、はずれない。


 かえって百地は体を寄せてきて、大内刈をしかけてくる。


 雷が走ってくるような、凄まじい脚の攻めであった。


 絡みついてくる百地の脚をはずそうと、とんとんと後ろに跳ねるようにして、紫は倒れるのを耐えた。


 道場の隅まできて、百地はいったん組んだ腕を放して、中央に戻っていく。


 紫はその背中に刺すような視線をおくりつつ、道着の乱れをなおした。

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