四の二

 藤林ふじばやしあぐりは、ひさしぶりにひとりで帰路を歩いていた。


 日直の連絡日誌を書くのに手間どったものだから、楯岡紫たておか ゆかり音羽小町おとわ こまちには先に帰ってもらったのだった。


 通いなれた道も、ひとりで歩くとなぜだか風景が違って見える。


 川幅十数メートルばかりの丸衣川まるいがわの、川と同じくらいの幅のある河川敷にある遊歩道を歩くと、まだ夏のなごりを感じる暑さなのに、土手の草たちはだんだんと色あせてきていたし、秋の野草が花をつけているし、秋の虫の声も聞こえてくる。


 夏が長くなったと言われる昨今でも、ちゃんと季節のうつろいを感じさせてくれる生き物も草木もいるのだ。


 川からはちょっと生臭いようなにおいが風にのって漂ってきて、この川がこんなにおいをするのもついぞ忘れていたし、鯉が群れて泳いでいるのに気がついたのもずいぶんひさしぶりのことだと思えた。


 ふと、前を向くと、春にはみごとに咲き乱れる桜の大樹の下に、ひとりの男がたっているのが見えた。


 藤林泉水であった。


 いつものスーツ姿とは違う、ブルーグリーンの裾の短めのジャケットを着て、黒いズボンとブーツをはいていたが、間違いなく泉水であった。


 なぜだろうとは思わなかった。


 泉水は確かにあぐりに視線をあわせている。


 あぐりを待っていたのだとわかった。


 あの時と同じだという気がした。


 ただ違うのは、泉水の顔にほほ笑みはなく、その唇は真一文字に引き結ばれ、その目は冷酷にあぐりを見つめていた。


 あぐりは気を緩めると走り出してしまいそうになる脚を、懸命に押さえながら彼に向かって歩いた。


「おにい……、藤林先生」


 たちどまってそう呼びかけたあぐりであった。


 だが、その先の言葉が、のどがつまって出てこない。


 泉水は何も答えず、ただ、じっとあぐりを見つめるのだった。


 あまりの沈黙の重さに耐えかねて、あぐりはかたい唾を飲み込んだ。


「その、ブレスレットを渡してもらおう」


 泉水がつぶやくように言った。


「どうして……?」


「理由を知る必要などない」


「…………」


「だがそれでは納得できまい。少しだけ教えてやる。俺は今、I.G.A.S.アイガスという組織に属している。組織がそれを必要としているし、それは本来I.G.A.S.のものだ。それを開発した城戸博士は、I.G.A.S.の援助を受けて、変身機能を完成させることができたのだからな」


「嫌です」


「お前に断る権利はない」


「これは、このブレスレットは亡くなったお母さんの形見です。たとえ藤林先生でも、わたすことはできません」


「ならば、手段を選ばん」


 言い終わるやいなや、泉水がすっと間合いをつめてきた。


 あぐりの左腕ににぶい痛みが走った。


 泉水があぐりの手首を骨が折れるほどの力でつかみひねり上げ、強引にブレスレットを引き抜こうとする。


「アルマイヤー、トランスポーテーション」


 あぐりはまばゆい光につつまれ、泉水を弾き飛ばした。


 アルマスーツに身を包み、あぐりが身構える。


 泉水はかけていた眼鏡をはずし、桜の木の根元に放り投げた。


 そして、すっと静かに構えた。


「俺が女を殴れないと思っているのなら、甘い考えだ。本気でかかってこい。それでもお前は勝てはしない」


「勝てます。あなたがもう、昔の優しかった泉水お兄ちゃんでなくなったのなら、私は勝てます」


 すっと泉水の体が横にスライドした。


 あっと思うと、あぐりのみぞおちにしたたかに泉水の右こぶしがめりこんでいた。


「ごほっ」


 あぐりはむせて、よろめいた。


 ところへ、泉水のかかと落としが上空から襲いかかる。


 それを首の付け根にくらって、あぐりはうつ伏せに倒れ、地面に強烈に腹部を打ちつけた。


 さらに、泉水のつま先があぐりの頬を蹴る。


 数メートル転がり、あぐりは立ち上がった。


 苦い味が口に広がり、口の端から血が流れ落ちた。


 泉水はそのあぐりの無惨な姿を目にしても、まるで動じる様子もなく、じっとあぐりを見つめている。


 心のこもっていない無機質な目であった。


「おにいちゃん。あなたは本当にもう、昔のおにいちゃんではなくなったのね」

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