第7話 貧民街の星
目印になるようなものさえない砂漠地帯をひたすら進む。たまに砂からアスファルトの地面がのぞいているところを見ると、ここもかつては公道だったらしいことが見て取れる。日は傾いているが照り返しは強く、喉が焼けるような暑さに身体中の水分を奪われていく。
ヒデヨシはスマートフォンの画面を見ながら、この世の終わりみたいな景色を、緑の矢印に向かって進んでいった。動かないスクーターはただの大荷物でしかない。その大荷物を押しながら、横には妖精のような女を連れて、砂に埋もれた道を歩いた。人さらいにでも遭遇したときに狙われぬよう、ナビィにはフード付きのパーカーを着せた。ヒデヨシのものなのでサイズが合わず大幅に袖が余っているし、彼女の膝上まで裾がきてはいるが、姿が隠れるのでちょうどいい。
二時間ほど歩いたところで、廃墟群に到着した。人の気配はなく、街灯もない。夕暮れに照らされて、崩れて斜めに立っているビルの窓ガラスが薄紫色の光を放っていた。
「着いた。このビルの奥が奴の棲家だ」
「ここって、廃墟じゃないの?」
「廃墟のような住居だ」
ヒデヨシが顎で指した建物は、二階建ての小さなビルで、この廃墟群の中で唯一もとの形を保っていた。だが外壁は剥がれているし、取り付けられた外看板はひしゃげて原型を成していないしで、とても誰かが商売をやっているビルには見えない。
スマートフォンのライトを付けると、入り口がかろうじて浮かび上がる。スクーターを押しながらビルの奥に続くスロープを進んでいけば、たどり着いた先は地下駐車場だった。
「オヤジ、客が来たぞ!」
そうヒデヨシが怒鳴ると、よく通る声は壁に跳ね返ってあたりに響いた。
地下駐車場の照明類は点っていないが、工事現場用の照明が設置されていて、奥から入り口にかけての空間を照らしている。
「そんなに怒鳴らなくても聞こえとるわ! まったく、人をジジイ扱いしおって」
「いつも何度呼びかけても気づかねえから、初めから大声出してんだろうが!」
「作業に集中してるときに限ってお前が来るからいけねえんだ。俺の耳が遠いわけじゃねえ!」
人気のない駐車場の中で、男たちの怒鳴り声が響き合う。ナビィは風見鶏のように二人の怒鳴り合いを見ていたが、途中からくすくすと笑い始めた。
すると彼女の存在に気づいた老人が、柱の影から首を出した。
作業をしていた最中のようで、顔が煤で汚れている。今日は元気そうだな、とヒデヨシはひとりごちた。
「なんだ。珍しいな。お前が女の子を連れてるなんて。ようやく新しい恋人を作る気になったのかぁ?」
何気ないひと言に、ちくり、と胸が痛む。
相変わらず半身を柱の影に隠したまま、興味を惹かれたように老人はヒデヨシとナビィを見比べている。
「こいつは……ちょっと事情があって世話してるだけだ。そういう関係じゃねえ」
ヒデヨシは、スクーターを引き摺りながら大股で店主のもとまで進んでいき、手早く故障状況を説明する。胸の痛みを誤魔化そうと、「タバコを吸ってくる」とだけ言って外へ出た。
◇◇◇
––––なんで、急に不機嫌になったの?
逃げるように駐車場を出ていったヒデヨシのあとを追うわけにもいかず、取り残されたナビィは店主に声をかけた。
「あの、初めまして。ナビィです。よろしく」
「あの奇天烈な男と一緒だと大変だろ。整備士のマテオだ。よろしくな」
「あ、でもヒデヨシは意外といい人で。よくしてもらってるの」
「意外と、か! はは、顔は悪人ヅラだもんなあ」
マテオは豪快に笑いながら、柱の影からようやく出てきた。怪我でもしているのか、左足を引きずっている。マテオがヒデヨシのバイクを点検し始めたので、唯一の光源を頼りに、ナビィは辺りを観察する。この広い空間の中には、バイクや車両、なんの部品かわからないようなガラクタが山ほど保管されていた。
「ねえ、こんな砂漠地帯の真ん中にいて、どうやって食べ物を確保しているの?」
「屋上にマテオ様専用の畑を作ってる。俺の家に代々受け継がれた種だ。あとはたまに腐れ縁の野郎どもが食糧を持ってきたりもする」
「水は?」
「俺は機械いじりが好きでよ。手作りで集水装置を作ってんだ。この辺の砂漠は海に近い。海霧がやってきたのを装置で捕まえて、飲めるように濾過してる」
ナビィの質問責めを、好意的にとったらしきマテオは、楽しそうに返答してくれる。無駄話をしながらも、視線はスクーターに向けたままだ。
しばらくして点検を終えたらしきマテオは上体を起こし、腰をどんどんと片手で叩きながら、ナビィの方を向いた。
「ジェネレーターの故障だな。ちょいと高くつくぜ。って、お嬢ちゃんに言ってもわかんねえか。……しっかし、俺もうっかり特大地雷を踏んじまったな。あいつが不機嫌になるのも仕方ねえ」
「特大地雷?」
「いやあ、すっかり人間嫌いになっちまったあいつが、女の子と一緒にいるってのがあまりに衝撃すぎて。やっちまったなあ」
「あの、えっと。ヒデヨシが、人間嫌い? そうなの?」
「ああ、しまった。また口を滑らせた」
いけねえいけねえ、と言いながら、マテオは禿げ上がった頭をペチンと叩く。赤色の道具箱からグローブを取り出して装着する。
「ヒデヨシはたしかに無愛想だけど、人間嫌いって感じはしなかったよ?」
ナビィが首を傾げながらそう言うと、マテオは背中を向けたまま、疑問に答える。
「ああ……あいつはな。ちょっといろいろあってな」
はっきりしないマテオの物言いに、ナビィはさらに関心を惹かれる。ヒデヨシは自分のことをほとんど話さない。家にいるときの行動から、パソコンを使って仕事をしていること、独り身であることはわかっているが、それ以外ほぼ知らないと言っていい。
「気になるなあ。マテオ、教えてよ」
「話したらあとで俺が怒られるんだよ」
マテオに片手間にそう言われて、ナビィはしばし考え込む。もしもこのまま聞き込みが功を奏して、スムーズに自分のもといた場所がわかったら。きっとヒデヨシのことはなにも知らぬまま別れることになる。それが自分としては寂しかった。あの悲しそうな瞳の奥をもっと知りたい。そして優しくしてくれた彼に、できることがあればしてあげたかった。
ぐるぐると考えているうち、ナビィは何かに気づいたようにパッと顔を輝かせ、マテオの前に回り込む。
「ねえ、ヒデヨシはスクーターの修理、ここにしか持ち込まないの?」
「あいつは人間との接触を極端に絶ってるからな。俺以外のとこには持ち込まねえ。新しい人間関係を作ることを嫌うからなあ」
「じゃあ怒られてもいいじゃん。故障したら必ずここに来るんでしょ。話してもマテオに損はないよ?」
マテオは顔を上げてナビィを見て、両眉をあげた。
「……ちげえねえ」
「よし、じゃあ話して。私とおしゃべりしようよ!」
先ほどからの様子を見るに、マテオは元来おしゃべりなのだ。そう考えたナビィは、屁理屈を捏ねて話を引き出そうと思い至った。
「お嬢ちゃんには敵わねえなあ」
マテオは楽しそうに笑うと、スクーターに向き直る。そして作業をしながら話し始めた。
「俺は昔、貧民街で整備士をやってたんだ。ヒデヨシのことはガキの頃から知ってる。とんでもねえ悪ガキだった」
「見た目通りだね」
ふふ、とナビィが微笑めば、マテオは懐かしそうに目尻の皺を深める。
「あいつはなぁ、貧民街の保護施設にいたんだが。頭が良かったし機械に強かったもんで、ゴミ捨て場からパソコンの材料を拾って、自分で組み上げてな。それを使って大人相手に詐欺を働いて、金を巻き上げて仲間たちに配ったりしてた」
「へええ、とんでもない悪ガキだ」
わざとらしくそう言って驚くそぶりを見せるナビィに、マテオはヤニで黄ばんだ歯を見せながら笑った。
「そうだろ? まあ、親もいなかったし、生きるのに必死だったんだろうけどな。あいつの仲間のひとりが、俺んとこで働いててよ。トモってやつなんだが。そいつから、あいつの武勇伝は山ほど聞いたよ。警備隊もヒデヨシには手を焼いていたようでな。何しろ犯罪の証拠を残さねえ。だから捕まえられねえ」
子どもの頃の、今より尖ったヒデヨシの姿を想像して、ナビィは含み笑いをする。
「今も悪いことしてるの? 顔は怖いけど、そんなふうには見えないよ」
「いや、それがよ。急にあいつ、まともに学校に通い出したんだよ。詐欺で稼いだ金で、通信課程で高等教育受けて。飛び級なんかもしちゃってさ。あっという間に大学卒業して、すげえ企業に就職したんだ」
「すげえ企業?」
「俺は難しいことわかんねえからよ。あいつが具体的にどんな仕事をしてたのかは知らねえ。ただ富裕層であっても一握りの人間しかつけない職についたんだ。つまりまあ、貧民街の星になったわけよ。あいつは」
「貧民街の星……」
ナビィはヒデヨシの部屋を思い浮かべた。彼の家の壁はほとんどが本で埋まっている。すごい量だねと言えば、「データで保管している資料の方が多い」なんて言っていた。
「努力したんだねえ。でもなんで急に」
「男が変わるときって言ったらよ。女ができたときよ」
マテオは小指を立て、ニヤニヤと笑う。
「ええ?」
「それまでまったく女っ気なんてなかったのによ。お相手は綺麗な子でな。貧民街の花と呼ばれた美少女だった。彼女のために頑張ったんだろうよ、あいつは」
ちくり、とナビィの胸が痛んだ。感電したみたいにピリピリとした刺激が、胸の内に小さく広がる。ナビィは胸を押さえて、自分の心の不思議な挙動に首を傾げた。
「……彼女。今はいないみたいだけど」
これまで感じたことのない気持ちだ。自分以外の誰かを、ヒデヨシが大事にしていたという事実に、戸惑っているような、さらに言えば、不快感を感じているような。
「死んだんだ」
「え」
「三年前かな。地盤沈下がきっかけの、百貨店の崩落事故に巻き込まれて。それっきりあいつは引きこもりになった。貧民街の星は、それ以来表舞台から姿を消したんだよ」
マテオは作業の手を止め、遠い目をした。
ナビィの脳裏に、地面に座り込み、顔面を真っ青にして震えるヒデヨシの姿が蘇る。
–––そういうことだったのね。
彼は悲劇に囚われて、前を見られないでいる。うしろ向きな発言も、悲観的な考え方も、きっと彼女の死が彼を縛っているのだ。
–––そんなふうになっちゃうくらい、彼女のことが大好きだったのかな。
「今日はずいぶんとお喋りじゃねえか、ジジイ」
突然聞こえた声に、ナビィは飛び上がる。眉間にこれでもかと皺をためたヒデヨシが、ナビィの背後にいつの間にか立っていた。
「おっと、戻ってきちまったな。大目に見てくれよ。ひさびさの客なんだ。しかもこんなに可愛いお嬢さんだろ? そりゃあ喋りすぎちまうこともあるってもんよ」
悪びれない様子のマテオを睨みつけつつ、ヒデヨシは眉間を摘んだ。戻ってきた彼は、甘いタバコの匂いを漂わせている。
ピリリ、とまた胸に電気が走った。びっくりして胸を押さえるナビィを、ヒデヨシは不思議そうに眺める。
「どうした。どっか痛いのか」
「ううん、なんでもない」
「そうか」
それっきり、ナビィもヒデヨシも、それまで饒舌だったマテオでさえも。誰も言葉を発さなくなった。金属がぶつかり合う音だけが、無骨な灯りに照らされた空間を支配していた。
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