第18話 土に還る

 風が鳴いている。


 家の外壁に襲いかかってくるような激しい風の音でヒデヨシは目を覚ました。

 ベッドから起き上がり、時計を見る。午前四時。日の出まであと二時間はある。


 昨日は疲れていたのか、ベッドに入った瞬間、泥のように眠ってしまった。少し読書でもしようかと早めに横になったのを最後に記憶がない。


 ––––睡眠薬を飲むようになって初めて、薬なしで眠れたな。


 寝室を出て、リビングの簡易ベッドに寝ているナビィの方へ視線をやった。静かで規則正しい寝息を立てている。彼女の起きる時間は六時と決まっていて、それ以前に起きてくることはない。一緒に生活するうちに気づいたことだ。


 寝顔を覗き込む。長いまつ毛は綺麗な弧を描いていて、まぶたにはくっきりとした二重の皺が刻まれている。唇は薄いが、整った形をしていた。


 邪な考えが頭をもたげて、それを理性で押し留める。

 ヘーゼルブラウンの流れるような髪を撫でて、心を落ち着けるようにふうと浅いため息をついた。


 ––––また、こんな気持ちになるときがやってくると思わなかった。


 離れたくない。ナビィをどこへもやりたくない。だけど彼女は、真実を知りたがっている。自分がどこの誰で、帰るべき場所があるのかを。


 すべてがわかって、もしも彼女を待っている男がいたとしたら。果たして自分は、この手を離すことができるのだろうか。


 ◇◇◇


 ナビィが目を覚ますと同時、バタバタと忙しなく歩き回るヒデヨシの足音が耳に入ってきた。毎日綺麗に掃除しているのに、家の中は散らかり放題だった。ナビィが眠っている間にヒデヨシがあちこちひっくり返したらしい。ひどい有様だ。


「ヒデヨシ、どうしたの?」


 時刻は朝六時。まだ商店はどこも開いていない時間だ。

 この時間なら気温は低めだが、砂漠地帯で朝の散歩に出るというのも妙である。


「ちょっと出てくる」


 上着を羽織ろうとしたヒデヨシが、玄関近くに積まれた段ボールの山に足をひっかけ、派手に床に撒き散らす。相当慌てているようだ。


「出てくるって、まだ早朝だよ? これから凄まじく暑くなるのに?」


「マテオの様子がおかしい」


「え?」


 振り返ったヒデヨシの顔はこわばっていた。


「今度ハヤカワ博士の屋敷に忍び込むのに、また妙な奴らに襲われた場合を考えて、ボディガードを雇えないかと思ったんだ。マテオは貧民街の自警団の取りまとめもしてたから、腕っぷしが強くて信用できそうな人間を知ってるんじゃねえかと思って、昨日の昼連絡しておいたんだが」


「返答がないの?」


「ない。あと、昨日一日、歩数計にも動きがなかった」


「歩数計?」


 ナビィは頭の上に疑問符を浮かべる。


「あのオヤジは身寄りがないし、歳いってるから。指輪型の歩数計を付けさせたんだ。俺のスマートフォンに歩数データが飛んでくるようにしてある」


「へえ」


「歩数に動きがなければ、見に行くようにしてて。前回行ったときは風邪でぶっ倒れてたんだが。メッセージに返信はあったからな。とにかく、お前は待ってろ」


「いや、私も一緒に行く」


「暑いぞ」


「私丈夫だもん。暑いのなんてへっちゃら」


 ファイティングポーズをとるナビィに、ヒデヨシは呆れ顔を向けた。


「……勝手にしろ」


「ありがと!」


 ナビィは顔だけ手早く洗うと、コートに袖を通し、ヒデヨシについて外に出た。


 ◇◇◇


 マテオの住む廃墟群に着く頃には、ヒデヨシは滴るほどに汗をかいていた。それとは対照的に、ナビィは涼しい顔をしている。暑さに強いというのはハッタリではないらしい。


 首に巻いたタオルで顔を拭いつつ、水分をしっかり摂ったあと。地下に続くスロープを下っていく。


「おい! オヤジ、客だぞ」


 返答はない。返ってきたのは、壁に跳ね返ったヒデヨシの声の余韻のみ。


 スクーターを駐車場の脇に駐めると、工事用ライトの光に向かって歩いていく。焦りが歩調に現れ、だんだんと早足になっていった。


「おい! マテオ!」


 仰向けに倒れていたマテオを見つけて駆け寄る。ヒデヨシに続いて、ナビィもマテオのすぐそばにやってきた。


 肩を叩き、意識を確認する。しかし応答はなく、体は生きた人間とは思えないほどに硬く、冷たくなっていた。


 彼は、すでに事切れていたのだ。


「マジかよ。おい! マテオ……クッソ……」


 ヒデヨシは片手で自分の額をおさえる。

 元気に憎まれ口を叩いていた男の最後は、ひどくあっけないものだった。


 自分がもう少し早く気づいていれば、ここに足を運んでいれば。ヒデヨシは言葉にならない後悔を、表情に滲ませた。


 しかしどんなに自分を責めても、あとの祭りだ。


 たとえ生きているうちに駆けつけられたとしても、最底辺の人間を病院が受け入れてくれることはない。地盤沈下のときに助けた老夫婦は裕福な人間たちだった。金払いの悪い貧乏人を厭う病院は多い。マテオの衣服を見れば、すぐに貧民街の人間だと分かっただろう。


 病院までだって自力で連れて行かなければならない。道中で亡くなっていたとしたら、ここで死ぬよりも苦しんだかもしれない。


 ヒデヨシは彼の安らかな眠りを祈って、おもむろに手を合わせる。ナビィはその横に跪き、震える両手で顔を覆っていた。

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