第19話 人を愛するということ


 ヒデヨシとナビィは、マテオの住んでいた廃墟ビルの裏手の日陰に穴を掘ることにした。自家農園を耕すために、彼はスコップなどの道具も廃ビルの中に常備していたので、故人に断ってからそれを手に取った。


 長方形に掘った穴にマテオの体を横たえ、上から土をかけていく。正午に近づくにつれ肌を焼くような暑さがあたりを包んでも、二人は手を止めなかった。


「せめて花があれば良かったな」


 ヒデヨシがそう言えば、ナビィが頷く。


「……そうだね」


 もしも彼が新市街の富裕層街に住むような身分だったなら。葬儀屋が来て、遺体はエンバーミングされ、たくさんの花が詰まった立派な棺に入れられて、大勢の人に見守られながら旅立ったのだろう。


 しかし貧民街の人間には、そんな贅沢な死に様は与えられない。ただ、土に還るだけ。


 家族の手によって埋められるならいい方だ。ヒデヨシやマテオのように身寄りがなければ、市営の焼却炉にぶち込まれ、施設の裏手の荒地に撒かれて終わりだ。


 誰もいないコンクリートの床で朽ち果てるのではなく、知人の手でこうして埋葬されるだけ、マテオは幸せなのかもしれない。


 砂漠の乾いた風を受けながら、ただひたすら、彼の魂の平穏を祈りながら、ふたりは土をかけ続けた。



 タバコを取り出し一口蒸せば、少しだけ生き返ったような心地がする。

 作業は終わった。目の前には瓦礫を集めて作った墓石が立っている。あの男との思い出がシャボンのように浮かび、膨らんでは消えた。


 突如肩に重たいものがのしかかる。ナビィが頭を寄せてきたのに気づき、髪に触れようとしたのだが。


「ナビィ……? おい、ナビィ!」


 ヒデヨシの手をすり抜けるように、ナビィの体が地面に向かってずり落ちた。彼女は意識を失っていたのだ。


 ◇◇◇


 水面に広がる波紋が、ゆっくりと収束していく。現れたのは真っ白な壁に覆われた仕事部屋のような場所と、椅子に腰掛ける男の姿。


『ナビィ』


『なあに?』


 椅子に向かい合わせに座る男に笑顔を向ければ、硬かった彼の表情が安堵に染まった。


『また会えて嬉しいよ。ずっと君に会いたくて、僕は気が狂いそうだった』


 痩せこけた腕が、すがるようにナビィの体をつつむ。


『愛しているよ、ナビィ』


『私も愛してるよ、■■■■』


 そう答えた瞬間。力強かった腕からは力が抜け、彼はナビィを解放し、絶望の瞳でこちらを覗き込んだ。


『もう一度、言ってみてくれ』


『愛しているよ』


『それじゃあ、まるでセリフを読み上げているみたいじゃないか!』


 両手で髪の毛をかきむしり、彼は苛立ちをぶつけるように机の上の書類を床に散らばしていく。ナビィはそれを、ただ、眺めていた。顔に笑顔を貼り付けて、次の質問を待っている。


『君は僕のことをどう思っている? どんな感情を持って接している? もっとちゃんと、僕のことを真剣に想ってみてくれよ!』


『愛しているよ。とても。■■■■のことが、この世で一番大好き』


『違う違う違う! 僕が求めているのはそんな返答じゃない! そんな、薄っぺらな返答じゃないんだ……』


 膝から床に崩れ落ちると、彼は嗚咽を漏らし、そのままうずくまった。


 ––––愛ってなんなんだろう。こんなふうに強制されるものなのかな。何度考えてみても、全然わからない。


 初めは愛を乞う声も穏やかだった。


 だけど回数を重ねるうち、それは失望に代わり、怒りに変わった。時には手を挙げられることも。


 怒りと悲しみを交互に繰り返し、地面に突っ伏してしまった彼の姿を見届けると。ナビィは静かに目を瞑り、現実から目を背けるようにして眠りの底へ落ちていった。


 ◇◇◇


「ナビィ! 気が付いたか?」


 ゆっくりと瞬きをするナビィの顔を覗き込み、ヒデヨシは息を呑む。


「……ヒデヨシ」


「気分はどうだ。気持ち悪くないか? とりあえず少し水を飲め」


 口元に水筒をやり、水を含ませる。無事に嚥下できた様子を見て、ほっと息を吐いた。


「夢を見てたの」


「夢?」


「そう。たぶん、古い記憶の」


「……! 記憶が戻ったのか?」


「断片的にだけど。……あんまり、いい記憶じゃ、なかったな」


 夢の内容を聞こうとして、止めた。彼女が自分から話さないということは、辛い記憶だったのかもしれない。体調の悪い彼女に、それを語らせるのは、酷だ。


「ねえ、ヒデヨシ」


「なんだ」


「人を愛するって、どういうことだろう」


 まるで世界のすべてに疑問を持つ子どものように。無垢な瞳で彼女は問う。


「……俺も良くわかんねえけど」


「わかんないんだ」


「うるせえな」


 突然こんなことを聞くのは、それが記憶につながることだからだろうか。そういえば以前、「人を愛してみたい、愛さなきゃいけない」なんてことを言っていた。


 愛の問答なんてものはよくわからない。しかしエレナの死を乗り越え、ナビィと向き合い始めた今では、「愛」とは何か、以前よりは自分の中で明確になった気がする。


「自分よりも大切にしたいって、思えることじゃねえかな」


「自分よりも?」


「あとは、ただそばにいたい。そいつの笑顔が見たいって思って、そのために行動できることじゃねえかな。よくわかんねえけど」


 照れくさくなって、指で頬をかき、そっぽをむく。

 頭によぎるのは、エレナと暮らした日々ではなく、ナビィと笑い合う日々だった。


「自分より大切で、ずっと一緒にいたいと思える……」


 どこか現実感のない様子のままナビィはヒデヨシの膝に頭を乗せたまま、空を仰いでいる。


「マテオには、そういう人はいたのかな」


 ヒデヨシはナビィの方を向かず、墓に視線を向けたまま答える。


「どうだろうな。でもそういうのも含めて、煩わしい人付き合いは捨ててたから。それはそれで幸せだったんじゃねえの。毎日好きな機械いじって」


「でも、ひとりだった」


「……そうだな」


「苦しんだときも、命が消える瞬間も、ひとりだったよ」


 ナビィは、目にいっぱいの涙を溜めて、ガクガクと震えている。悲しみに沈む彼女の頭を、気づけば撫でていた。


「まあ、亡くなった瞬間はひとりだったかもしれねえけど」


 ヒデヨシはふたたびタバコを吸って、煙を吐いた。


「マテオはひとりじゃなかったんじゃねえかな」


「どうして?」


「貧民街出身の奴が、たまにここにバイクや車を直しにきてたし。みんなちょくちょく安否確認がてら連絡をしてきてうるせえ、なんて笑ってたしな。ひどい裏切りにあったし、それでこんなところに住み着いたけどさ。俺みたいな奴と違って、あのオヤジは慕われてたから。……あと、お前が『またね』って言ったのを嬉しそうにしてたな」


 ナビィは唇を噛み、ヒデヨシを見上げた。


「一緒に住んでなくても。自分を想ってくれる相手がいて、いつでも連絡を取れる相手がいるってことだけでも。心強かったんじゃねえかな。あれもある意味では、愛していたし、愛されていたとも言えるかもしれねえ」


 彼女は眉尻をさげ、力無く笑う。


「そっか」


 ヘーゼルブラウンの瞳から、ポロポロと涙の雫がこぼれ落ちる。ヒデヨシのゴツゴツとした手が、ナビィの頬に触れた。ナビィはその手に頬擦りするようにし、目を閉じた。


「ヒデヨシの手、あったかい」


「生きてるからな」


 記憶がなくて、まっさらだったナビィの中に、この短い間に大量の情報がなだれ込んできた。しかもそれはキラキラとした希望に満ちたものではなくて、残酷で、苦しい現実ばかり。


 それでもずっと前を向いて、負けずに輝き続けていた彼女だったが。

 ここへきて、揺らいでいるのかもしれない。


 人間の世界は崩れてきている。


 富は限られた者たちに集中し、残りの人々は苦しみに喘ぎながら終わりを待っている。平和な世の中だったなら、当たり前に享受できるはずのものさえ手に入れられない人たちがいる。


 その現実を前にし続けて、ナビィも突然怖くなったのかもしれない。あるいは、そうした苦しい過去の断片を、思い出したのかもしれない。


「ヒデヨシ」


「……おう」


「私、ヒデヨシの淹れるハーブティが好き」


 ヘーゼルブラウンの瞳が、悲しげにこちらを向く。


「くだらない冗談を言って、笑い合うのも好き」


「おう」


「ヒデヨシのためなら、何でもしてあげたいって思う。ヒデヨシが私にそうしてくれたみたいに」


 心臓の鼓動が速くなる。その先にある言葉に期待して。


「そうか」


「ねえ、ヒデヨシ」


 ナビィは上体を起こし、見上げるようにしてこちらを見つめた。


「これは愛してるって言える?」


 たまらなくなって、ナビィを抱きしめる。細くしなやかな体は、温かい。


「そうだったらいいなと思う」


 ナビィの涙の筋を拭って、そっと白磁気のような頬に口付けた。


 記憶がないとか、ナビィがどこの誰かとか。待っている人がいるとかいないとか。

 そういったことが、一気にどうでもよくなった。このときに限っては、ナビィもそうだったのだと思う。


「私、あなたとこの先も、ずっと一緒にいたいよ。あなたと一緒に、生きたい」


 ナビィは顔を上げ、ヒデヨシの濃茶色の瞳を真っ直ぐに見つめた。愛しい相手の輪郭を確かめるように、優しく両手をヒデヨシの頬に添える。


 そして彼女は想いを伝えるように、ゆっくりとヒデヨシの唇をうばった。

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