第20話 記憶が戻ったら
「ヒデヨシ……ちょっと、待って」
「待てない」
自宅の玄関に足を踏み入れてすぐに、ヒデヨシはナビィを壁に押し付けた。
宝石を嵌め込んだようなヘーゼルアイに、熱を宿した瞳を向ける。恥ずかしがるナビィの唇に、やや強引に自分のそれを重ねていく。
感情の歯止めが効かない。
彼女から求めてくれたことが嬉しくて、ナビィを愛しく思う気持ちが、いっきに膨らむのを感じた。
初めはゆるい抵抗をしたナビィだったが、唇を舌で舐められ、頬を優しく撫でられているうち、トロンとした眼差しになり、ヒデヨシの口付けを受け入れていく。
「ナビィ……」
「うん……」
「好きだ」
「……」
ナビィは、答えなかった。
答えられない理由はわかっている。記憶がないからだ。今、彼女が「好きだ」と言っても、それは嘘になるかもしれない。記憶が戻ったら、愛した男の名前を思い出すかもしれない。
それでもこの瞬間だけは。きっとナビィも自分のことを憎からず思ってくれているはず。彼女から求めてくれたことが答えだ。
「ヒデヨシ、シャワーを」
「別に浴びなくてもいい」
「汗臭いよ」
「お前の汗なら別にいい。それにお前、ほぼ汗かいてなかっただろ」
「でもっ、私はいやなの」
「……まあ、女は気にするのか」
ヒデヨシはぎゅっとナビィを抱きしめると、名残惜しい気持ちを押し込めて、ゆっくりと彼女を解放した。
◇◇◇
「もぉぉぉぉぉ、ヒデヨシったら」
ナビィは浴室に入ると、熱を持った頬を両手で仰いだ。
「急に、あんな。もうっ」
自分を求める濃茶の瞳が、心を掻き乱す。幸福感でいっぱいになって、破裂しそうになる。
ゆっくりと深呼吸を繰り返し、浴室の扉に背を預けた。
気持ちを落ち着けたところで、マテオの死に顔が蘇る。胸の辺りを押さえて、苦しそうだった。少し前まで目の前で笑っていた人間の命が、露と消える。それを目の当たりにした瞬間、どこかへ消えてしまっていた記憶が、突然蘇った。
「あの人が、私の恋人か、旦那様だったのかな。はっきり顔も見えたはずなのに、今は思い出せないや」
胸のペンダントに手をやり、握りしめる。愛をくれと叫ぶ彼の目には、狂気が宿っていた。あの人は自分の目の前で死んだのだろうか。それとも、「愛する」ナビィを血眼になって探し続けているのだろうか。
「だとしたら、戻りたくないなあ……」
強制される愛は、苦しい。「人を愛する」ということは、夢の中の彼に向けなければならなかった愛とは、どこか違うと感じる。
ヒデヨシに向けられた優しさや、彼と共有する穏やかな時間が、自分にそうと気づかせてくれた。
自分の頭を撫でる大きな手。
記憶を失った自分のことに必死になってくれる彼の優しさ。
そして時折向けられる、熱を帯びた濃茶の瞳。
その一つ一つがナビィにとってかけがえのないものだ。
––––これがきっと、愛してるってこと。
自分から求めた口づけは、無意識にも近いものだった。触れた唇は柔らかくて、タバコの香りがした。包み込むように抱きしめられた太い腕に、安心感が広がった。
でもこのまま、彼と歩む道を歩んでいいのだろうか。記憶のない中途半端な自分のまま。
––––辛い記憶でも。思い出したくない記憶でも。思い出さなきゃいけないよね。
取り戻したら、ちゃんと自分の気持ちをヒデヨシに伝えよう。そう決意して、唇を引き結ぶ。
「まずは、今このときに向き合わなきゃ」
彼は部屋で待っている。シャワーを浴びてここを出たら、どう声をかけるのがいいのだろう。「お風呂あいたよ」だろうか。「遅くなってごめん」とか。いや、むしろ「一緒に入ろう」と誘うべきだったり。
––––うわあああ。恥ずかしくなってきたああ!
そもそも真実がはっきりしない状況で、流れに身を任せてしまっていいものだろうか。
頭をブンブン振り、気を取り直し、歯ブラシに手を伸ばす。
「うわっ」
何かが指先に刺さった感覚があり、驚いて手を引っ込める。
歯ブラシを立てかけてあるコップの中に、剥き出しの剃刀がささっていたのだ。
「ちょっと、もう、ヒデヨシ……! 刃物にはちゃんとキャップをしておきなよ」
もともと整理整頓が苦手なタイプではあるが。今日はマテオのことで、家の中を落ち着かない様子で歩き回っていた。おそらく朝の支度を終えたときに、ここにカバーをせぬまま突き刺してしまったのだろう。
「血は、出てないよねぇ……」
おそるおそるナビィは自分の指先を見た。幸い出血はしていないようだったが、傷は深い。ただ、まったく痛みは感じなかった。こんなに深く切っていて、血が出ないのも不思議だと思い、傷口をちょっと広げてみる。
広げてみて、ナビィは唖然とした。
そこに、「あってはならないもの」があったからだ。
––––嘘。
「おい、どうした? なんかすごい声が聞こえたけど」
ヒデヨシの声に、慌てて反応する。
「ううん、なんでもない! 大丈夫だから」
自分がどうやって息をしていたのか、わからなくなる。これまで見ていた現実が、すべてひっくり返ったような感覚だった。
もう一度指先を確認する。しかし「あってはならないもの」が消えてくれることはなく、それはナビィに、まごうことなき現実を突きつけていた。
「あの、ヒデヨシ、ごめん」
「なんだ」
ナビィが浴室を出たあと。交代でシャワーを浴びていたヒデヨシは、寝室にやってきてすぐ、ナビィをベッドに押し倒した。赤茶の濡れた長髪が、彼の色気を増している。
その姿を前に、ナビィは思わず見惚れながらも、顔を背ける。
「あの、今日……」
「なんだ、はっきり言えよ」
「女の子の日が、きちゃったみたいで……」
「あ……そう」
明らかにがっかりした様子のヒデヨシだったが。眉間に皺を寄せ、深い呼吸を繰り返すと、ゴロン、とナビィの横に転がった。
「気持ちの準備ができてないんなら、待ってるから」
目を瞑ってそう言ったヒデヨシを見て、ナビィはぎくりとする。
––––嘘だって、バレてる。
「すべてお見通し?」
「……こっちこそ、あんま、余裕がなくて悪かった」
「ううん、こっちこそ、ごめん」
その場でナビィが固まっていると、浅黒いヒデヨシの腕が伸びてきて、ナビィの頭を胸に抱き寄せた。
「記憶が戻ったら」
囁くような、優しい、穏やかな声だった。
「え?」
「記憶が戻ったら、お前の気持ちを聞かせてくれ」
痛いほどに胸が締め付けられ、息が詰まった。顔がこわばる。今、ヒデヨシの胸に顔を埋めていられたことを、心からよかったと思った。
「うん、言うよ。ちゃんと、言う」
––––ごめん。
「楽しみに待ってる」
––––ごめん、ヒデヨシ。
ヒデヨシは腕を緩め、嬉しそうな笑顔を見せる。頬を染めた彼は、あどけなさの残る少年のようだった。
罪悪感に苛まれ、ナビィは唇を噛む。
このままこの人と一緒にいたら。
この気持ちを育ててしまったら。
––––私、きっとあなたを傷つけてしまう。
自分勝手な感情を自覚し、ヒデヨシの胸に顔を埋める。
たとえ傷つけてしまうとしても。それでも、まだ、一緒にいたい。
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