第13話 逃げた先にあったもの

 橙色の夕日が水平線に落ちていく。メインストリートに近づくにつれ、人通りは多くなっていった。


 人口減少に伴い、この国ではコンパクトシティ化が進み、都市部に人口を集中させ、地方は朽ちるままに任せておくという方針が取られている。


 新市街・旧市街・貧民街の三エリアからなるリトルトーキョーは、この国の主要都市のひとつ。そのため夕方を過ぎてからは、さまざまな人々が行き交い、賑わいを見せる。


 すでに体力の限界は超えていた。銃撃される少し前まで、ナビィの背を追いかけていたせいで、ヒデヨシの足はパンパンに張っている。


 だが止まるわけにはいかない。道端で襲われても、誰も助けてはくれない。人々はスマートフォンで撮影する余裕はあっても、決して手を差し伸べようとはしない。警備隊もすべての人間を守れるほどのキャパシティはない。通報したところで駆けつけてもらえるかは運だ。


 護身用の拳銃は携帯している。だが相手は複数で、ヒデヨシがナビィを守りながら戦うのは分が悪い。


 人の波の間を縫うように掻き分け、ナビィとヒデヨシは逃げていく。大柄なヒデヨシは腰を落とし、極力相手方の目印にならないよう、小さくなって走った。


「あれがお前が言ってた、覆面のやつか!」


「たぶん。今は覆面してなかったからわかんなかったけど、背格好が似てた!」


「お前のことを待ち伏せしてたのか」


「わかんないけど、そうじゃないかな。あの屋敷の周辺を探しに来ていたのかも」


「……そうか」


 この国の安全を守る組織が崩れてきてからは、一般人でも自衛のために武器を所持する人間が増えた。警備隊もそれを黙認している。


 しかし、喧嘩をしたわけでもないのに、いきなり通行人に向けて発砲するなんていうのはおかしい。未来に悲観的になったあまり市中で乱射事件を起こすやつならたまにいるが、今の一撃は確実にヒデヨシを狙っていた。


「何であいつらはお前をつけねらってんだ」


「そんなの! 私が聞きたいよ!」


 肺が苦しい。胃液が上がってくるような感覚もある。それでも命を繋ぐために、必死に走った。自分の命なんていつ失われてもいいと思っていたのに。守るものができると、考え方は変わるのだろうか。


 人混みの中でヒデヨシは背後を振り返る。どうやら上手くまけたようだ。


「もう、大丈夫そうだな」


 足を止め、ほっとしたのも束の間。前を向いた瞬間、想定外に視界へ飛び込んできたものを見て、色を失った。


「ここは……」


 あれ以来、近づかないようにしていた場所に、偶然にもヒデヨシは来ていた。アル・ベール百貨店跡地。ヒデヨシの恋人がその崩落に巻き込まれた場所。忌まわしきその場所が今、目と鼻の先に聳えていた。崩落した建物の周囲には、簡易的なバリケードが設置されていて、その前には花束が供えられている。


 途端に突き上げるような吐き気に襲われ、ヒデヨシは歩道のど真ん中にうずくまる。家路を急ぐ通行人に蹴飛ばされ、その場で吐瀉した。


「ヒデヨシ? 大丈夫?」


 驚いた様子のナビィは、慌ててヒデヨシを引っ張って道の端に寄せた。通り過ぎゆく人々が訝しむような目でこちらを見ている。彼女はヒデヨシの背中をさすりながら、心配そうに顔を覗き込む。


 鼻の奥がつんとする。頭がガンガンして、視界が歪んだ。吐き気がどんどんひどくなってくる。


「ナビィ、せっかくここまで引っ張ってくれたところ悪いんだが。俺をここから離してくれないか」


「え?」


 状況を理解できない様子のナビィだったが、苦悶の表情を浮かべるヒデヨシの視線の先を見て、理解したようだった。


「……わかった」


 ––––マテオのところで、聞いてたからな、こいつ。


 マテオを訪れたとき。ヒデヨシがタバコを吸い終えて駐車場に戻る際、ふたりの会話が聞こえた。気まずくて話が終わるまで柱の影に隠れて待っていたので、ナビィが何をどこまで知ったのかはわかっている。


 ––––人のプライベートを勝手に話しやがってと思ったが。今はマテオに感謝だな。状況が状況なだけに、理解が早くて助かる。


 ナビィはヒデヨシの脇の下に入り込み、小さな体で精一杯支えてくれる。ネオンが煌めくメインストリートを越えて、新市街の有料駐車場付近まで戻ってきていた。吐き気の落ち着いたヒデヨシは、近くの小売店のトイレを借り、うがいを済ませた。ふたりとも疲れていたせいか、ずっと無言だった。ナビィはもしかしたら、気を遣ってくれていたのかもしれないが。


「ナビィ」


「なあに?」


「付き合ってほしい場所がある」


「もう夜七時だけど、大丈夫なの?」


 瞳に月を浮かべ、ナビィはヒデヨシの顔を見上げる。


「人間がいない場所だから大丈夫だ」


「ええー。やらしい。何するつもり?」


「ぶっ飛ばすぞ」


「やだなあ、冗談だってば!」


 形のいいナビィの額に軽くデコピンを食らわせれば、彼女は眉をハの字にして抗議の声を上げる。


「ちょっと何するの、いたいけな女の子の顔に」


「うるせえな!」


 ヘラヘラと笑いながら、ナビィはついてくる。この明るさが、今はありがたかった。


 上着を羽織り、スクーターに跨ると、月明かりの中を走り出す。走っている間、ずっとナビィは鼻歌を歌っていた。


 到着したのは、都市部からは三十分ほど走ったところにある林。ナビィは薄暗い木立の合間を覗き込みながら、思案顔をしている。


「もしかして、私を殺してここに埋めるとか」


「物騒なこと言うんじゃねえ」


「だって、何でわざわざこんなところに」


「この林を抜けた先が目的地だ」


「なんだ、そうならそうと早く言ってよ」


「今言ってるだろうが」


 ナビィはヒデヨシの腕にしがみつくように引っ付いた。甘えているというよりは、単純にこの薄暗い場所が怖かったのだろう。葉の間から漏れる月の光を頼りに、凸凹した土の地面をゆっくりと進んでいく。ところどころ木の根が飛び出ていて、たまにナビィが転びかける。五分ほど林を歩いた先で、薄暗いばかりだった視界が、急に開けた。


「うわあ……」


 それだけ言って、ナビィは言葉を失った。


 月明かりに照らされた小高い丘。視界いっぱいに花畑が広がっている。純白の可憐な花たちが風に踊り、優しい甘い香りが鼻を抜けた。空気が冷たいせいか空は澄んでいて、バケツいっぱいの砂をひっくり返したみたいな星空がそこにはあった。


「すごい……綺麗。こんなに緑が残ってる場所もあるんだ」


「人間が住む地域の近くには少ないけどな。人がいなくなった地方では、結構こういう森林が戻ってきているって聞く。そう考えると、人間ってーのは、地球にとっては害虫でしかないんだよな、きっと」


 ヒデヨシの言葉を、ナビィは聞いていないようだった。ただただ目の前の風景に見惚れ、うっとりとしている。そんなナビィの表情を、微笑ましい気持ちでヒデヨシは眺めつつ、白い花の群生地の中に腰を下ろし、ゴロンと寝転がった。


 雲ひとつない、吸い込まれそうな空だった。このままあちら側に落っこちてしまいそうなほどに。気づくとナビィも、ヒデヨシの横に寝転がっている。


「何で、ここに連れてきてくれたの?」


「ちょっとした気分転換だ」


「そう」


 ナビィの方を横目で見る。朧げな月明かりに照らされた白い肌が、綺麗だと思った。


 彼女と過ごし始めて、まだ二週間も経っていない。しかしふたりで過ごす時間は穏やかで温かいもので。もはや手放せなくなりつつある。


 ––––もう、こいつには話してもいいかもしれない。


 自分のことを、ナビィにもっと知ってほしい。いつかヒデヨシの家を出ていくことになったとしても、その先でずっと、繋がっていられるように。


「ここは……」


「うん?」


「俺が亡くなった恋人と、昔よく来ていた場所だ」


 ナビィは目を見張ると、嬉しいような困ったような複雑な顔をして、「そうかあ」と呟いた。


 ヒデヨシは視線を空に戻し、銀砂をまぶしたような空を見上げながら、ぽつり、ぽつりと話し始めた。

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