第33話 日記

 ナビィは、記憶の海の中にいた。


 膨大な映像データが泡沫のように現れては消え、自分の中に吸収されていく。

 その作業を繰り返す中で、突如、真っ白な空間に放り出された。目を凝らしてみると、そこは岬のようだった。


 ––––ここ、あの額縁の中に入ってた写真の場所?


 ナビィの視界にはひとりの男性が映っていた。白髪混じりで、くたびれた印象の彼は、五十代といったところだろうか。


「君は、海が好きだったんだよ」


 彼はそう言ってナビィに微笑みを向けた。今は、はっきりとわかる。この人が、ゲンナイ・ハヤカワ博士だ。


「そうだったんだ」


 自分の声が、博士の言葉に応える。

 しかしどこか不完全で、感情のない声だった。


 ナビィはテレビを見るように、自分の目から見える博士の映像を眺めていた。

 彼はナビィを正面から見て、悲しげに笑いかける。


「ここはね、初めてのデートの場所で。この崖の上から下を見て、君は『落ちたら痛そうだね』って言って笑ったんだ」


「うん、言ってたね。データにあるよ」


「そうかい」


 博士は眉根の皺を深くした。ナビィの返答は「不正解」のようだった。


「ナビィ、好きだよ。僕は君のことが大好きだ。ずっと一緒にいて欲しかった。それなのに、君は……」


「ごめんね。ここにいるのが、本物の私じゃなくて……」


 ナビィの言葉に、悲痛な表情を浮かべた博士は首を横に振る。


「いいんだ。僕が悪いんだ。君が苦しんでいる間も、僕は仕事をしていた。罰されるべきは僕なんだ」


 博士は涙を流しながら、ナビィを抱きしめた。


「ナビィ、愛していると言ってくれ。僕を愛していると」


「うん、愛してるよ。ずっとずっと、大好きだよ」


 ナビィは答えた。プログラムされている言葉の通りに。


「違う」


 突然、博士はナビィを突き放し、その場にしゃがみ込む。ナビィは彼の背中に手を置いたが、振り払われた。


「君は、やっぱり妻じゃない。君の言葉には、感情がこもっていない。やはり、ダメだったか。どうしたらいい? どこの設計がまずかった?」


「アーサー、ごめんね。上手くできなくて……」


 泣き崩れる博士を、ナビィはただ見守ることしかできなかった。


 ––––ああ、思い出した。これは、私が初めて目を開けた日の記憶だ。


 失われていた記憶が、戻る。

 ナビィの頭の中のコンピューターに読み込まれ、処理され、理解されていく。


 ハヤカワ博士は西方の国の出身で、「ゲンナイ」という名前の他に、もう一つ名前を持っていた。親しい家族しか呼ばないその名は、Arthur(アーサー)。ペンダントに刻まれたAtoNは「Arthur to Nabby」、あれは、ハヤカワ博士から妻へのナビィへの贈り物だったのだ。


『アーサーと呼んでほしい。君には、そう呼んで欲しいんだ』


 それが、ハヤカワ博士の、本物のナビィへのプロポーズの言葉だった。

 家族しか呼ばない名前で呼んでほしい。僕と、家族になって欲しいと。


 しかし彼が愛した「妻」のナビィは、博士の出張中に急逝した。

 彼は、妻の死を受け入れることができず、「感情を持った」妻そっくりのアンドロイドを作り上げることを目指した。


 しかし、博士が人生を賭けて作り上げたナビィは、その努力も虚しく、彼の存命中に感情を理解することができなかったのだ。


 ◇◇◇


 手持ち無沙汰になってしまったヒデヨシは、パソコンの画面を操作する。「研究記録」をクリックすれば、こちらにも指紋認証によるロックがかけられている。


 動作を停止しているナビィの指先を拝借し、ロックを解除した。アプリケーションが開いた瞬間、数十年にも及ぶ膨大なデータファイルが目の前に広がった。


「こりゃ、すげえ……」


 アンドロイド研究に関わる人間たちなら、誰もが喉から手が出るほど欲しい資料だろう。ヒデヨシはデータの希少性に身震いし、中身を覗き見ようとカーソルを操作した。


 博士の遺産を見ていく中で、ふと、端の方にあるファイルに目を奪われた。


 「日記」というシンプルなタイトルのそれに、吸い寄せられるようにカーソルを合わせる。


 そこに綴られていた内容を読み、ヒデヨシは目を見開いた。


 口元に手を当てる。ページをスクロールする手が止まらない。しかし読み進めるたび、心が切り裂かれるような感覚に陥った。


 そこには、妻の愛に飢えた、ひとりの男の苦しみの日々が綴られていたのだ。


 『二月二十日。妻が逝った。正確には、妻が逝ったことを知った。

 学会のため出張に出ていた私は、妻が死んだことにこの日まで気が付かなかった。


 いつもの通り玄関で靴を脱ぎ、家の中に入ると、いつもは出迎えてくれるはずのナビィの姿が見えなかった。帰る時間は連絡してある。ナビィが出迎えを欠かしたことはない。私は焦って、彼女の名前を呼びながら、家の中を探し始めた。


 ナビィの亡骸を見つけるまで、そう時間はかからなかった。彼女はキッチンで倒れていた。家の中に他人を入れるのを好まず、使用人のひとりも置かなかったことをこれほど悔いたことはない。ひとりでもいれば、彼女は助かったかもしれないのに。


 そばに駆け寄って、ナビィの名前を呼ぶ。応答はなかった。瞳は空虚で、頬には赤みがない。すでに死後硬直が始まっていて、私が愛した妻の姿はそこにはなかった。


 救急隊は呼ばなかった。意味がないからだ。

 死因を知ったところで、ナビィが生き返るわけではない。


 妻は硬くなっていたが、幸い腐敗は始まっていなかった。


 私は妻のすべてを記録した。身長、体重、体の各部位を採寸し、出来うる限りの記録をとった。死んでいても、妻は美しかった。もう一度笑ってほしくて、涙が出た。


 妻の笑顔に会いたい。柔らかな体に触れたい。愛していると言葉を返してほしい。


 苦しみながらも、私は記録を取ることに集中した。


 出来うるかぎり、彼女の正確な姿形を書き残さねばならない。


 私は妻なしでは生きていけない。妻が私の人生のすべてで、希望だった。

 愛していた。誰よりも。この世の誰よりも。


 それから私は、妻を「復元」することに命を捧げた。

 研究所に出勤することもやめた。

 できるだけ、妻のために割く時間を作りたかった。


 感情のあるアンドロイドを、妻の姿形の、正しく人間の愛情を理解するアンドロイドを、作らねばならなかった。それを作ることが、私の心の支えでもあった』


 ハヤカワ博士は、愛妻家だったとルカからの情報で聞いている。


 妻の死を受け入れることができなかった彼は、自分のすべてを賭けて、妻をアンドロイドとして「復元」することにしたのだ。


 ––––表舞台から姿を消したのは、研究に集中するためだったのか。


 次々とページを繰っていく。研究は難航したようだ。しかし異常とも思える執着心で、彼は研究を続けていく。


 事実、狂っていたのかもしれない。アンドロイドとしての性能よりも、いかに「妻」を再現するかに重きをおいた研究であったことが、残された言葉の数々から伝わってくる。


『妻であるためには、表面には人間と変わらぬ質感の素材を探さねばならない。しかし妻はもういない。指先に残る彼女の感触はもう、思い出せなかった。私は人間の女がどのような質感でいるのかを確認するため、娼館へ通った』


『食卓についたとき、妻にも一緒に料理を食べてもらいたい。そこにただいるだけでは、意味がない。食事を咀嚼し、消化し、排出するまでの一連の流れをアンドロイドの体内にも作りたい。好物を「美味しい」と感じる感覚も、共有できるといい』


『映画を一緒に見て、笑ったり泣いたり、感情表現が忙しいのが妻だった。人工涙液を溜め、排出する器官を瞳に繋げ、感情の起伏と連動して涙を流せるような構造にしたい』


 単純に人の性能に近い「感情を持った」アンドロイドを作るのであれば、無駄な器官は一切排除したほうがいい。そもそもが、最先端の技術を詰め込もうとしているのだ。人間のサイズは決まっているわけだから、限られた空間内に入り切る仕組みを取捨選択しなければならない。本来は「感情」を再現することに集中すべきだったはず。


 しかし博士がこの研究に没頭する理由は、あくまで「妻にもう一度会うため」だった。


 アンドロイドには一見不要だと思われる、涙を流す器官や、味を感じる器官も、彼にとっては必要不可欠な要素だったのだ。


 マウスにのせた指に、力がこもる。


 研究は長い長い年月を経て、いよいよ完成するに至った。


 ––––無駄な器官を排除すれば、もっと早くに出来上がっただろうに。


 研究データを見ながら、ヒデヨシは思った。とんでもない天才だ。常人では考えつかないような仮説を組み立て、たったひとりで根気よく実践し続けている。この人の心が正常に保たれていて、研究所を辞めていなかったら、アンドロイド研究は今より二十年は先に進んでいただろう。


 命を削るような研究の末に出来上がった「ナビィ」。本来ならその完成は喜ばしいもののはずだった。しかし「ナビィ」が目を開けた瞬間から、博士の日記は悲哀に満ちていた。


『これは、妻であって、まだ妻ではない』


 ナビィが起き上がり、動作を始めた日に書かれた日誌は、そのひと言で始まっていた。


 人工知能は学習を必要とする。完成時点ですでに「妻」に関する膨大なデータをインプットしてはあるが、それは、単なる知識の働きしかしない。人間らしく振る舞うためには、感情を理解するには、「実践学習」が必要とされる。


『ナビィを、私の「ナビィ」にするために。私は、愛とはなにかを、教え続けた』


 博士は毎日、ナビィに睦言を囁き、慈しみ、自分の気持ちを伝え続けた。それに対し、ナビィは柔らかく微笑み、言葉を返す。しかしそれは、博士の言葉を借りれば、「人形がセリフを読んでいるようなもの」だったようだ。


 ––––今のナビィの状態になるまでは、かなりの時間を費やしたんだな。


 ナビィは、どこからどう見ても人間だ。

 だからこそ、かつてアンドロイドの研究者であったヒデヨシでさえ、彼女が機械であることに気が付かなかった。


 博士の研究記録は、そこで途絶えていた。なぜここで記録を止めたのだろうか。


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